道場
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朝稽古は、掃除から始まる。
リリューが掃除を始めると、モモがやってくる。
「おはよう、リリューにいさん」
栗色の長い髪を結い上げ、袴にたすきがけという出で立ちだ。
着物関連は、全て彼女の母親──ウメの手作りだ。
かくいうリリューも、ウメに立派な袴一式をこしらえてもらっていた。
余りに良すぎて、なかなか袖を通せずにいる。
「おはよう、リリュー、モモ」
あくびをしながら現れるのは、シェローだ。
リリューの兄弟子だ。
軍令府の下級役人の職を得た彼は、しかし、デスクワークよりもその剣の腕を買われてしまい、暑苦しい職場に放り込まれたと嘆いていた。
「おはよう、シェローにいさん」
モモがにこーっと笑うと、彼女に甘いシェローの顔がヤニ下がる。
それから、門下生の兵士たちがやってくる。
古参も多く、母がいない時は代役も兼ねていた。
門下生の多くは、誇らしげに袴を身につけている。
ウメが縫い方を、彼らの妻に教えたのだ。
この道場主と、同じ衣装を着たがったせいである。
おかげで。
町を歩く彼らは、一目でどこの道場の人間か分かる。
その品行方正ぶりのおかげか、数人の女性の門下生も来ていた。
「おはよう、みんな」
そんな女性を束ねているのが、エンチェルク。
ウメの側仕えから護衛まで、何でもこなす多才な女性だ。
帯剣を許された、数少ない門下生の一人でもある。
日本刀と呼ばれるものが、この国で作られるようになったのは、ごくごく最近。
門下生の一人に、鍛冶屋の息子がいたのだ。
彼は、剣術を学ぶ一方、母の愛刀のような刀をこしらえることを長年の目標にしてきた。
数年前、ようやくその出来に、母が頷いたのだ。
それから、日本刀は数少なくではあるが、この都で作られるようになった。
「おはよう」
その母が──現れた。
あの日。
自分を、地獄から抱き上げた女性だった。
※
「おはようございます!」
遅れて駆け込んできた子供に、皆がおはようと口々に応える。
小さな身体。
それと対照的な長い髪。
左の目元に二つ並ぶほくろが、印象的だった。
子供は、一礼して自分の木剣を取りに行く。
リリューは、何年も変わらぬその姿を見てきた。
本当であれば、モモよりも年上のはず。
10歳ほどで止まった姿に、騙されてはいけない。
彼は、ただの子供ではないのだ。
太刀筋は、粗いが強く。
その身が成長すれば、どれほど素晴らしい剣士になることだろう。
ここにいる皆が、その日を願っていた。
名を──テルという。
成人までの間、彼は好きな習い事が出来た。
宮殿の外に出る、ということについては、いろいろ問題があったようだが。
「おはよう、テル」
「また、大きくなったんじゃないか?」
近づいてくるモモを、テルは少し嫌そうに見る。
「そう、また伸びたみたい……お父さんに似たのかなあ」
何故か、自分の身長を計るのに、リリューの身体を使う。
確かに、また伸びているようだ。
「モモの父親って……誰だ?」
「ヒミツ~」
怪訝に問うテルに、彼女がにこっと笑う。
子供の頃。
よく、リリューはモモの面倒を見た。
『ととさまに会いたい』と泣く彼女を、彼はだっこしてあやしたものだ。
そんなモモに、彼は本当の父と母の記憶を、おぼろげに話したことがあった。
小さい手に、リリューは撫でられた。
自分より年下の子に、慰められてしまったのだ。
それ以来。
モモは、父親を恋しがって泣かなくなった。
「テル……あの事、考えといてね。私、絶対役に立つから」
「……」
だが。
何もかもあきらめたワケでは、なさそうだ。
よからぬモモのお願いに、テルはぷいっと無言で立ち去ってしまった。