桃と女性たち
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「ご迷惑をおかけしました」
レチは、ふわっふわな白い肌を持った人だった。
都では、まず滅多に見ない色だ。
桃も、元々そんなに黒いわけではないのだが、どうしても都で生活しているため日常的に日に焼けてしまう。
それでも、ここでは白い方だ。
レチのそれは、はっきり言って違う肌。
髪はしんなりとした灰色。
どこの生まれだろうか、このあたりでは、本当に見ない容姿をしている。
「いえ、迷惑をかけたのはうちの方ですから」
レチは、ロジアと間違えて連れて行かれた。
本人にしてみれば、災難以外の他ならない。
天の賢者宅からの帰り道。
かの御仁は、荷馬車でレチを連れ去ったが、送り届ける心配りは見せてくれなかったので徒歩だ。
ヤイクは、そのまま残った。
賢者と、じっくりたっぷり話をすることがあるそうだ。
多分、また面倒なことを考えているのだろう。
それは、ロジアの時で十分体験済みだった。
武の賢者宅で、桃を囮にする気満々だろう。
そうなると。
「あの……リリュー兄さんの家、しばらく危ないことがありそうなんで、どこか安全なところをご紹介しましょうか?」
心配の言葉は、レチのぽにょぽにょをこわばらせた。
「だ、大丈夫です……ちゃんと働けますから」
いや、そんな心配をしているんじゃなくて。
しかし、話をこれ以上進めない方がよさそうだということは分かった。
いままで周囲にいる人たちの、誰とも違うタイプなのだと、こうして話すとよく分かる。
だが。
「どうして女性たちは、誰も素直に逃げると言わないのか」
エインの中では、桃を含めてみないっしょくたにされているようだった。
※
桃は、太陽妃と同じ部屋だった。
いくら武の賢者宅とは言え、全員ひとりずつの客間を用意するには部屋が足りないのだ。
こうして見ると、彼女は本当に小さかった。
古い古い眼鏡を、大事に鼻の上に乗せて、暗い窓の外を見ている。
「座られたらいかがですか?」
まるで誰かを待つように、じっと外を見ている太陽妃に、桃はソファを勧めた。
「ありがとう……でもね、外を見ていたいの」
やんわりと、彼女は椅子を断った。
暗い外など見ても、楽しいものなどありはしない。
なのに、太陽妃はクスッと笑ったのだ。
「ハチが、駆けまわっているわ…狩りの練習でもしているのかしら」
山追いのハチは、武の賢者宅で放し飼いされている。
普段は、茂みに隠れているため、この屋敷に山追いがいることさえ気づかない人も多い。
人気のなくなった夜、のびのびと遊んでいるようだ。
そんな野生に近い獣を、しっかりと太陽妃は見つけていた。
鼻の上にのせている硝子の眼鏡なるものは、それほどよく物を見られるのだろうか。
日本から持って来たという、それ。
彼女や母や伯母が生まれ育った、この世界ではないところの国。
「日本の話を……よかったら聞かせてくださいませんか?」
母の口から聞いたことはある。
伯母の口からも聞いたことはある。
数多くではなかったが、自分の中に流れる山本の源流の話は、二人から聞くことが出来た。
しかし、山本とまったく関わりのない太陽妃の知る日本の話は、聞いたことがなかったのだ。
こんな機会は、もう二度とないかもしれない。
「日本の話……ふふふ」
桃の申し出は、彼女を楽しませたようだ。
何かを思い出したように、小さく笑う。
「私は、日本では小さなお店で、花を売るお仕事をしていたのよ」
どうして、今こんなことになっているのかしらね。
冬の終わりの雨の日に。
彼女が、「いらっしゃいませ」と言った相手が──母と伯母だった。
そんな、太陽妃の昔話。
※
桜の苗を買いに来た双子の姉妹。
「桜の木…私も見ました」
夫人宅の、少し手前の草原でのこと。
魅入られそうなほど美しく、事実、本当にコーを連れ去りかけた。
「ハレと一緒に旅をしてくれたんですものね…美しく咲いていたと聞きました」
懐かしそうに、太陽妃は目を細めた。
「何の導きだったんでしょう…桜の苗と、美しい菊さんの刀と、私も原因の一人なのかしら…ともかく、強い地震の後、気が付いたら三人ともあの草原にいたのよ」
私も原因の一人。
そう言った時の、彼女の複雑そうな表情。
原因は分からないが、結果的に桜はあの場に根付き、魔法に似た力を得ているように見えた。
「あの桜は……帰り道なのかもしれないと、何度となく思ったけれど…」
三人の女性は、誰一人として帰ろうとはしなかったのだ。
「日本は、良い祖国よ……でも、こちらの国の方に必要とされている気がしたの」
働き者で技術を大事にし、最先端と田舎が同居し、現実的なのに迷信も大事にする──そんな不思議な祖国の話。
夜の昔話は、時間を忘れるほど桃にとって楽しかった。
だが、ふっと太陽妃は唇を一度閉じた。
「子ども……?」
その唇が、再び怪訝とともに開く。
話をしながらも、太陽妃はずっと窓の外を見ていた。
「こんな夜に、子どもが一人で外へ出る……はずはないわね」
首をかしげる彼女の側に寄り、桃も覗いてみたが、暗過ぎて人影らしきものは判別出来なかった。
翌朝。
太陽妃が、朝食の時に他の皆にその事を語ると、一人の表情がさっと曇った。
それは──エンチェルク。
彼女は、すぐさまロジアの方を見る。
ロジアは、澄ました顔をしたまま食事を続けていた。
「夜に子どもが一人で、こんなところをウロつくなんて……ユッカスの子で間違いなくてよ」
日本人が、こうして子を成して増えているように。
異国人の血もまた、この国で増えていたのだ。
※
夜明け前から騒がしく、桃が慌てて飛び起きると、玄関には伯母とレチが立っていた。
来ているのは、軍令府の役人と兵士のようだ。
レチの白い肌は、遠目から見ても分かるほど、真っ青になっている。
「あー……分かった」
伯母は、短くそう答えて彼らを帰した。
「おはようございます伯母さま……一体何が?」
階段を駆け下りて玄関へ寄ると、伯母はゆっくりとこちらを振り返った。
「爆発したそうだ」
この家で、いま一番皆が敏感になる言葉──それが『爆発』
ユッカスが絡んでいるという証拠の言葉。
「な、何が……?」
何処が?
誰が?
問いを、どの形にすればいいか分からなかった。
そんな聞き方など、どうでもいいことなのだと、伯母の答えを聞いて理解した。
「……道場と、お前の家だ」
────。
言葉にならないとは、こういう気持ちなのか。
どんな反応を起こすより先に、桃の頭の中を廻ったのは、記憶をさかのぼれる限り古い思い出。
母がいて、エンチェルクがいて、伯母がいてリリューがいて。
門下生たちがいて。
母に、礼儀作法と勉強を叩きこまれ、木剣を握り、父を恋しがって泣いた、あの家と道場。
「むこうさんの、ご挨拶と言ったところだろう」
伯母は、ぽんと桃の肩を叩いた。
そのしっかりした口調と手の感触に、はっとした。
物は、いつかはなくなるものだ。
なくなったとしても、もう一度また作ればいい。
まだ、誰ひとりとして欠けてなどいないのだから。
桃は、深呼吸した。
思い出が、消されたわけじゃない。
「お茶、入れましょう……みんな起きてるはずですから。お湯わかしてきます」
桃の声に、顔を上げたのはレチ。
まだ青い顔をしていたが。
「お、お湯なら私がわかしてきます」
仕事が出来てほっとしたように、台所へと消えて行った。