リス
∞
「今日、テテラさんと町へ出ようと思うのよ」
翌日。
母が、桃にそう言った。
買物や、見物にでも連れだす気だろうか。
それは、悪い話ではないし、おかしくもない。
だが、シェローに言われたばかりだ。
テテラについていてやれと。
母は、身体は弱いが腕が弱いわけではない。
滅多に見せることはないが、身を守ることくらいは出来るが、それは間違いなく母の身体に負担をかけるだろう。
「私も一緒に行く」
つい身を乗り出して、桃は宣言してしまった。
その勢いに、母は意外そうな顔をする。
「大丈夫よ、菊と一緒に行くつもりだから」
答えは、桃にとって意外だった。
伯母さまが!?
ありそうでありえない話だ。
姉妹なのだから、一緒に出かけても不思議はない気もするが、違う道を歩く二人が、行動を共にするところをほとんど見たことがなかった。
何だろう。
わざわざ護衛に、伯母を呼ぶ人とは思えない。
それならまだ、先に桃に話があるはずだ。
何か、企んでいるのではないだろうか。
企むと言えば、聞こえが悪いかもしれないが、それがぴったりな言葉に感じたのだ。
自分が気に留めなければ、知らないまま流れていってしまうかもしれない何か。
だから。
桃は、言葉を変えてこう言ってみた。
「わ、私もついて行ってもいい?」
心に、留めてみることにしたのだ。
母は。
静かに微笑みを浮かべる。
「好きになさい」
母が、秘密のヴェールをほんの少し、持ち上げてくれた。
※
女四人で、町に出た。
普通、女四人で買物なんてことになれば、布問屋や装飾品、そこまで贅沢にいかなければ、日常生活の品や食品が並ぶ市場などとなるはずが。
母も伯母も、そんな華やかな市場街道など、見事に素通りだ。
素通りと言っても、テテラの速度に合わせているため、非常にゆっくりではあったが。
華やかな都の市場通りを、眩しそうに見つめている彼女は、別の意味で都の人に見られる。
大きな松葉杖を見た後、彼らは必ず足を見るのだ。
テテラの、足りない足を。
都も広い。
人も多いし、事故もあるだろう。
だから、身体の一部が不自由ながらも生きている人たちもいるはずだが、彼らを余り見ることはない。
外に出るのを、おそらく好まないのだろう。
町の住民全てが、死に直面したあの港とは違うのだ。
先頭の伯母は、市場の終わりの路地を折れ、裏通りへと入る。
建物の間の細い道は、完全なる日陰なのに、熱さが一層増した気がした。
複雑な臭いが入り混じり始める。
食べ物より、遠い匂い。
「ここは?」
桃は、足を踏み入れたことのない通りだ。
素直に問いかけると、伯母が肩越しに振り返る。
「熱職人通りだ」
熱職人。
火を使う仕事をする人たちだ。
鍛冶に陶器、硝子職人たちのこと。
扉を開け放して、彼らはごうごうと燃える火と戦いながら仕事をしているのだ。
見ているだけで火傷しそうなのに、彼らのほとんどが上半身裸で、火と戦っている。
こんな熱職人たちに、一体何の用が。
「邪魔するよ」
その一つに、伯母が入った。
そこでは、火は焚かれていなかった。
最初から、約束をしていたのだろう。
「いらっしゃい、キク先生」
中から出てきたのは、桃も知っている男だった。
同じ道場の門下生で──この国で、唯一日本刀を鍛えることの出来る鍛冶職人だった。
※
鍛冶屋!?
一瞬驚いた桃だったが、日本刀絡みの話ならばおかしくない。
いやいやいやいや、おかしいよ。
納得しかけた自分を、無理矢理に打ち消す。
ここにもし、テテラがいなければ納得したかもしれない。
彼女のために出かけた二人が、日本刀関連でつながるとは思えなかったのだ。
だが。
いたのは、鍛冶職人──ウーゾだけではなかった。
汗をだらだら流しながら、ぐったりしている男がもう一人。
こちらは、桃の知らない人だった。
その男が、女四人の訪問を確認した直後。
それまでのぐったりが嘘のように、びしっと立ち上がった。
「こんにちは、淑女のみなさん」
一瞬で身なりを整え、艶のある笑みを浮かべる。
汗さえ、気合でひっこめたかのような様子に、桃はぎょっとしてしまった。
深い土色の瞳と対照的な、少し薄い肌の色。
髪は、少し長めで縛っているが、とても貴族には見えなかった。
「リスチェイドーメルベンラウハと申します。よろしくお見知りおきを」
キラキラした瞳を桃に向け、長い名前を一気に並べ連ねる。
「は、はぁ……桃と申します」
圧倒されながらも、条件反射的に名乗ると。
「おぉ、モモ! この国では聞き慣れない甘美な異国の香り! すらりとした肢体に、厳しさと優雅さを兼ね備えた……うごっ!」
謎の呪文をまくしたてていたリスの頭を、鍛冶屋ウーゾの鉄拳が襲う。
「すみませんね、キク先生……こういう男なんですわ」
大きなため息と共に、ウーゾは太い腕で彼の首根っこを掴むと、そこらに強引に座らせる。
「ああ、大体分かった」
目だけで、伯母は笑った。
なるほど。
桃も、把握した。
この男は、女性が好きで好きでたまらない人なのだろう。
その中でも特に、若い女性が。
だから、桃に的を絞ったのだ。
だが、分からないことがある。
リスは── 一体何者なのか。