そうじゃない
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テルに解放されたのは、もはやほとんど真夜中のことだった。
リリューは、ふぅと吐息をついて見送りを終え、玄関を離れた。
母は見送りにも出てこなかったので、既に寝ているのだろう。
相変わらずだ。
エンチェルクも、小さなため息をついている。
彼女も、気苦労が絶えないだろう。
ロジアを抱えている上に、イーザスという問題の種を持ち込んだのだから。
しかし、エンチェルクは、誰かにぶつぶつと不平不満を言い並べる人ではない。
それらを胸の内にしまって、静かに自室へと戻って行った。
リリューも、自室に戻るべきだ。
もはや、女性を訪ねる時間ではないし、みっつある客間のどの部屋に彼女がいるか、聞きそびれたため知る由もない。
なかなか、縁がないものだな。
同じ屋敷にいるというのに、彼女と顔を合わせることも、ままならない。
不作法をするわけにもいかず、もうひとつため息をついて、リリューは自室へ戻ろうとした。
いつものように階段を上がり、いつものように自分の部屋の扉の前に立つ。
官舎であるため、父がここに住む前から使われていた家だ。
何もかもに年季が入っていて、扉の取っ手もノッカーも、多くの人の手によって使いこまれた跡が残っている。
慣れ親しんだ、久しぶりの自室。
リリューは、扉を開けた。
ふわりと。
ほの温かい温度と、柔らかく静かな気配が鼻先に届いて、彼は一瞬時を止めた。
見知った自室に、見知らぬ誰かがいるのが分かったのだ。
部屋は、彼が帰ることを見越してか、いくつもの燭台に火がともされて、それなりに明るく照らされている。
しかし、そんな視界でさえ、人の姿を見つけられない。
リリューは、足早に中に入った。
彼の視線が、ソファの背もたれを越えた時。
ソファに倒れ込むようにして、眠っている人間がひとり。
驚きと安堵に、同時に襲われるという矛盾の渦のなか、茫然と彼はその人を見た。
知る限りの誰よりも真っ白な肌と、ふくよかなその身にあせた灰色の髪。
見間違うはずがない。
『彼女』だ。
問題は──何故、彼の部屋で寝ているか、だ。
※
リリューの部屋に、客人が来ることはまれだ。
大体、彼の行動で行けば、部屋はほぼ寝る場所に過ぎず、ソファを使うことなどほとんどない。
はっきり言えば、彼にとってこの小さな応接部は、無用の長物と言っていいだろう。
しかし、この家は借り物。
元々あったものを、無理に押しのける必要もなく、置いたままにしていたのだ。
そこに、彼女が眠っている。
リリューは、とりあえず──向かいのソファに座ってみた。
意外と、座り心地がよいものだと思った。
長いこと、本当にこれは自分にとって飾りだったのだと思い知らされる。
その飾りの向こう側で、彼女はすやすやと寝息を立てていた。
待ちくたびれたのだろうか。
今日、彼が帰って来たことは、エンチェルクからでも母からでも聞く機会はあったはずだ。
どういう過程があったかは知らないが、彼女はここで待つことになったのだろう。
だが、テルの訪問で予定は全て崩れ去った。
その間、彼女はずっとここにいたのか。
いつ来るとも知れない、リリューを待って。
むにゃと動いた口に、彼は我知らず笑みを洩らしてしまった。
起きている時の彼女は、少し騒々しかったが、いまの彼女は子どものように上半身を丸めて眠っている。
その落差が、おかしかったのだ。
人には、多くの顔がある。
今日の自分は、テルからは間抜け顔に見えたらしい。
それが、自分の内側にある心の揺れの部分を指摘したのだとしたら、確かに否定できない。
家族のこと、親族のこと、故郷のこと。
リリューの中にも、いろいろと揺れる部分がある。
その中の一つに、この女性のことがあった。
そんな彼女の。
瞼が、揺れる。
一度、強く強く眉間の真ん中に顔を寄せるように顰められる。
その後。
ぱちりと。
目が。
開いた。
※
「こんばんは……」
何と、挨拶すればよかったのだろうか。
リリューは、よく分からずに、とりあえずそう声をかけた。
次の瞬間。
彼女の目は、信じられないほど大きく見開き、大きくソファを弾ませて玉のように跳び起きた。
真っ白い肌が、一瞬にして真っ赤にゆで上がり、落ち着かない指が髪や顔に触れて整えようとする。
その目は。
とても、リリューの方を見ていられないように、斜め下に逃げ切ったまま。
「あっ、あなたのお母様がっ……待つなら……ここでって……その……あの」
動悸がおさえられない弾む声は、うまく舌が回らないまま、言い訳を並べようとする。
ああ、母か。
大体、予想は出来ていた。
母なら、このくらいのことはやりかねないと、納得するだけだ。
今夜は、もう彼女に会うことは出来ないと思っていたから、リリューにしてみれば母のお節介をとやかく言うつもりはなかった。
「あの……私……わたし……」
落ち着かない言葉は空回りするばかり。
こんな再会を、予定していなかったのはお互い様だ。
もっときちんと、心の準備を伴って出会うはずだった。
首まで赤くして恥じる彼女の姿は、そのふくよかな身とは正反対に小さく見える。
ここまできて。
何を焦る必要があろうか。
彼女の慌てぶりが、逆にリリューを落ちつかせた。
大きくひとつ息を吸う。
「リリュールーセンタスという」
出来るだけ、静かに言葉を並べてみた。
どうせ、気のきいた言葉など、自分に言えるはずがない。
それならば、とりあえず事実を並べていくことにしたのだ。
「え?」
面喰ったように、彼女が一瞬だけリリューを見た。
「私の名前だ。リリュールーセンタス」
もう一度言うと、彼女は赤い顔を下に向けながら、むにゃむにゃと何か言いかけて。
キッと顔を上げた。
決死の勇気を振り絞った表情というのは、こういう顔なのだろう。
「わた……私……レチガークアークルムム」
この名を知るまで── 一体どれほどかかっただろうか。
※
心の中の彼女に、ようやく名前がついた。
レチ。
「あなたの……名前は知ってたわ……」
そらした瞳の向こう。
何を見ているのかも分からない様子で、彼女がとつとつと言葉を紡いだ。
名前を言い合ったことで、少しは落ち着いたのだろうか。
「テイタッドレック卿の子息も知ってらっしゃったし、あなたのお母様も呼んでらっしゃったから」
イエンタラスー夫人宅で、卿と手合わせをしたことがあった。
その時に、リリューが名乗ったことを、彼は覚えていたのだろう。
「でも……」
困惑した声が、その後に続いた。
「でも……賢者の子息だったなんて……」
深い落胆が、そこには感じられる。
とても、そんな偉い人の子どもに、リリューが見えなかったのだろう。
実際、その通りだ。
賢者である父親の出自は、農村だ。
いわゆる、ド平民である。
賢者になったからといって、貴族の真似事などするような人ではない。
母は、言わずもがなああいう人で。
更に、自分は養子であり、やはりド平民の間に生まれた。
どこを切っても、高貴の文字など混じりようがない。
「賢者は一代限りだ。私には関係ない」
成人の旅に同行したが、彼が同行したのは太陽になる気がまったくないハレで。
自分に、輝かしい着飾った未来が待っているなんて、これっぽっちも思っていなかった。
「でも、せめて言ってくれてたら……」
ぐじゅっと、言葉の最後がつぶれた。
「言ってたら?」
その後に続く言葉は、きっとリリューが喜ぶものではないと感じる。
ただ、溜め込んでいる音の中に、彼女の本質が混じっているはずだ。
それを、彼は見ようとした。
「言ってくれてたら……」
逃げ続ける視線。
「訪ねようなんて思わなかったのに……」
ぐじゅっ。
ああ。
リリューは、思った。
言わなくてよかった、と。
※
「何度も、帰ろうと思ったのに……」
レチは、しょんぼりした声に変わった。
「最初の頃は、暑さにやられて動けなくて、ようやくおととい、思い立ってあなたのお母様においとまを言おうとしたの」
そうしたら。
「『別れの言葉なら、うちの愚息に直接言ってやってくれ』、と」
どういう、顔をすればよかったのだろう。
その言葉を言っている情景は、母の姿と声で簡単に脳裏を流れた。
彼女がこの屋敷を立ち去るということは、リリューと今生の別れをするのだと思ったのだろうか。
そして、その想像はおそらく遠いものではない。
レチが振り絞った勇気は、ついえかけていた。
そのついえかけた火を、母は息子のために残してくれていたのだ。
それがたとえ。
別れの言葉であったとしても。
「それで……私……」
彼女が──いや、レチが。
レチが、次に唇に乗せる言葉は、声にされずともリリューに伝わった。
本当に別れの言葉を言う気なのだ。
思わず、ソファから立ち上がっていた。
そんな彼の挙動に、びくりと彼女が動きと言葉を止める。
「レチガークアークルムム」
リリューは、その名を綴った。
生まれて初めて、言葉にした。
何が起きるのか分からずに、固まっているレチは呆然と、しかしリリューを見上げている。
使えない脳みそでも、ごくありきたりな言葉くらいなら、何とかなる。
装飾は出来ないが、ありのままの言葉なら、何とか声に出せる。
だから、リリューは言った。
「レチガークアークルムム……訪ねてきてくれて嬉しい」
嬉しい時の笑みは──これでよかっただろうか。
※
しばらく、レチは呆然とリリューを見上げていた。
その目が。
少しずつ色を取り戻すにつれ──見る見る間に涙をためていく。
ぼろぼろぼろぼろと。
今度は、鼻の頭を真っ赤にして泣き始める。
「だ、だって……馬鹿じゃない、私!」
話が、噛み合わない。
リリューは、来てくれて嬉しいと言ったのに、彼女の返す言葉はまったく別方向にすっ飛んでいくのだ。
「あ、あなたと、何の……何の話もきちんとしたわけでもないのに……勝手に……押じがげで……」
涙でぐしゃぐしゃになる顔が、言葉もぐしゃぐしゃにする。
「ぜっがぐ働いでだ夫人の屋敷もやめでぎぢゃうなんで……どうがじでだんだわ……来でなにがあるわげでもないのに……」
わあわあと。
見上げながら泣く彼女の感情の昂ぶりは、リリューには速すぎる。
ただ、レチがひどく思いつめて都へ来たことだけは、強く伝わった。
「私、あなだにびどいごどをじだがら…もうごのまま一生会えないっでおぼっで…そうおぼっだら…」
ひどいこと。
もしかして、自分をはたいたことを言っているのか。
リリューが思うより、もっと深く彼女はそのことを思っていたようだ。
ただ。
レチもまた、このまま一生会わないで終わることは、耐えられないと、そう思ったのか。
そのことは、彼の心に暖かい風を入れる。
だから。
「いるといい……」
言っていた。
「この屋敷に……いるといい」、と。
ぐっしょりと濡れた目が。
一度、強く開かれた。
その目元を袖でぐいぐいと拭った後、真っ赤な目がリリューを見上げて。
真顔で、こう言った。
「こ、ここで……働かせてくれるの?」
そうじゃないと説明するには──どこから話を始めたら良いのだろうか。