人の心配、自分の心配
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その女性は、都の暑さにまいっていた。
若く、そしてふくよかな身体を長椅子に預け、ただじっとして体力を取り戻そうとしている。
エンチェルクは、冷ややかな井戸の水に布を浸して、その額に乗せてあげた。
「ありがとう……ございます」
息も絶え絶え、といった様子だ。
そんな彼女が、キクの家にいるのは──リリューを訪ねてきたからだ。
テイタッドレック家の跡継ぎであるエインが、この女性を連れて、突然この屋敷を訪ねてきた。
彼は、キクとの面会を求めた。
進み出た足を止め、父親に習っただろう日本式の辞儀を見せた。
「お初にお目にかかります。エインライトーリシュトと申します」
テイタッドレックの血は、彼の中にはっきりと現れている。
本当の子でないというのが、信じられないほど。
「山本菊だ、よろしくな。ふむ、父親によく似ているな。しかも、父親の若い時よりデキが良さそうだ」
キクは、快活に笑う。
昔の、テイタッドレック卿のヤンチャぶりを思い出すかのような言葉に、エンチェルクも、ふと記憶を巻き戻してしまった。
今の卿しか知らない息子からすれば、信じられない話だろう。
「いえ……まだまだ若輩者です。突然の訪問、失礼致します。どうか、しばしの間、稽古をつけていただきたく存じます」
貴族でも何でもないキクに、エインは深い深い礼儀を示す。
父親から、相当叩き込まれているのだろう。
「好きなだけいるといい。部屋を用意しよう」
「ありがとうございます」
ひととおりの会話が終わった後、キクの視線が、彼の連れて来た、挨拶も出来ずに弱っている女性に向けられる。
「ところで……彼女は?」
言葉が向けられたことに、ふくよかな女性は何とか会釈だけを試みる。
「ああ……イエンタラスー夫人のところで預かってきました……ここの子息に用があるそうです」
エインの補足に、キクの視線が一瞬ジロウにいった。
その後。
宙を見つめるようにして、もう一人の息子を思い出す仕草をする。
「ついに、うちの息子にも……女が訪ねてくるようになったか」
とてもとても──愉快そうだった。
※
「餅娘は、元気になったか?」
キクは、彼女に奇妙なあだ名をつけていた。
白くてぷっくりした肌を見ると、どうしても『餅』なるものを思い出すというのだ。
「少しずつ、元気になっては来てますね。暑さもそうですが、長旅の疲れもたまっていたのでしょう」
答えながら、エンチェルクはロジアの方を見ていた。
彼女は、ジロウの揺りかごを揺らしている。
その揺りかごは、この屋敷の主──武の賢者の手作りだ。
立場上、そんなことをする暇もないほど忙しいだろうに。
「それより……」
エンチェルクは、少し気になるところがあった。
「それより、テイタッドレック卿の子息のことですが……」
エインは、道場で知り合ったシェローの荷馬車に乗って行ってしまったのだ。
東回りの街道を行くそれは、うまくすれば帰途についているモモたちと鉢合わせるだろう。
もう少し待てば、彼女は帰ってくるというのに、わざわざ出向いて行ったのだ。
「どうも、モモに早く会いたがっているように見えて……」
嫌な予感がするのだ。
昔、彼の父に覚えたのと、似た感覚。
「弟だが、血の上では従弟だろう? 心配することじゃない」
あっさりとしたキクの血縁談義に、エンチェルクはがっくりした。
ああそうだ、こういう人だった、と。
「まあそう心配するな。うちの息子にさえ、女が訪ねてくるようになった……いつまでも子どもじゃないってことだ」
薄く笑う剣の師匠は、見た目こそ確かに年を重ねはしたが、それ以外は何ひとつ老いて見えない。
キクやウメが変わらない反面、エンチェルクは彼女らや時代の渦の中でもみくちゃにされ、何もかも変わった気がする。
「モモにまで、こんな心配をすることになるなんて……」
いろいろ思い出していたら、自嘲の笑みになってしまった。
そんなエンチェルクに。
キクは、肩をすくめてこう言った。
「人の心配ばかりせずに、少しは自分の心配をしろ……シワが増えるぞ」
意地の悪い、母の声にでも反応したのだろうか。
ゆりかごの中で──ジロウがピギャーと泣き出した。