危険な男
∞
桃とリリューとテテラの旅路は、穏やかなものになるはずだった。
少なくとも、自分と従兄が二人いれば、何の心配もないと思っていたのだ。
だが、忘れていた。
あの男の存在を。
「テテラフーイースル!」
「あら、イーザス」
前者の声は殺気立ったもので、後者の声は柔らかな驚きに包まれていた。
警戒したのか、ハチは脇の茂みに飛び込んで身を隠してしまう。
テテラを愛する狂気的な男──イーザス。
なでつけていた黒髪は、ぐしゃぐしゃに乱れ、目の下はクマで真っ黒だ。
彼女が都へ旅立ったと聞いて、何日も寝ずに追いかけてきたように見える。
だが、疲労よりもたっぷりの怒りと殺意を、あらわにしていた。
テテラを背負っているリリューが、横目で彼を注意深く見る。
「彼女を離せ」
彼にしてみれば、リリューと桃は愛するテテラをさらった犯人というところだろう。
「イーザス、何を怒っているの? 手紙にも書いていたでしょう?」
尋常じゃない様子に、テテラが割って入る。
「都へ行きたいなら、俺が連れて行ってやる」
彼女の望むことであれば、何でもやりたかったのか。
いま、その場所にリリューがいることが、どうしても許せないようだ。
「私はね……」
ささくれだった痛い空気の中。
テテラの声は、とてもとても静かに感じた。
「私はね……大事にいたわられたいわけじゃないの」
ふと。
桃の頭の中に、母がよぎった。
身体の弱い母は、自分の身体と徹底的に向き合い、付き合っていた。
逆に言えば、自分の動ける限界線を、しっかりと把握している人でもある。
テテラもまた、自分ができることの果ての線を見た人なのだろう。
リリューに背負われるのも自分のつとめ。
足が弱り過ぎないように時折歩くのもまた、自分のつとめなのだと。
自己完結型の管理をしている彼女には、イーザスの愛は強く甘すぎるのだろう。
テテラの言葉に、まさに彼は苦悶の表情を浮かべた。
「……愛する人をいたわって、何が悪い」
恋にのたうつ──男がひとり。
※
「一休みしよう……」
従兄がそう言ってテテラを下ろした時、桃は驚いたのだ。
こんないたたまれない状況で、休憩なんて呑気な言葉を吐いたのだから。
しかも、イーザス込みでの休憩ということだ。
「ふざけるな」
やはり──彼は怒ってしまった。
「ふざけてない……大事な話なら、納得のいくまでゆっくりするといい」
お前から、彼女を無理やり奪おうとしているのではない。
まるで。
人というよりも、動物に語りかけるような声だった。
手負いで牙をむく猛獣に、おびえるでも媚びるでもなく、静かに見つめ返す。
伯父の姿が、重なって見える一瞬だった。
すたすたとハチが隠れた方向へと、リリューが歩くのに桃もついていく。
少なくともイーザスは、他の誰にも関わって欲しいなんて、思ってもいないだろうから。
リリューがしょいこも持っていってしまったので、彼女をさらって逃げるのも難しいだろう。
ハチは、泣き声ひとつあげずに、身を低くして草の合間にいた。
まだ子どもであっても、この山追はとても賢い。
きっと次郎を、守ってくれるだろう。
「リリューにいさん、あの男も都へ行くって言ったらどうする?」
ハチを見下ろしながら、桃は気になることを口にした。
テテラは、内密にロジアと再会させるつもりだった。
できれば、これから彼女とずっと一緒にいて欲しかったのだ。
それはきっと、お互いのためになるだろうから。
しかし、イーザスは危険すぎる。
彼に、ロジアが生きていることが知られたら、ここまでの苦労が全て水の泡になってしまう可能性が高い。
「来たければ、来ればいい」
あっさり言われてしまって、桃は少し笑ってしまった。
しょうがないなあ、もうと。
母も、姉妹である伯母に、こんな気持ちを抱いたことがあるのではないだろうかと、ふと思った。
どっしりとした力を持つものが、あるがままに生きているのを、見られる幸せという気分か。
従兄は。
何かに惑うことなど、ないのだろうか。