ヤイクと客
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媚を売る相手以外に水を差されて、男は笑みを消した。
「失敬な、お前は一体……!」
上手にでかけたその唇は、途中でぴたっと止まる。
こんなまちなかにいるのだから、ヤイクを一瞬平民と見誤ったのか。
だが、気づいてしまったようだ。
悪い意味で、彼は貴族や役人の間で有名だろうから。
「さあ、私は一体誰だろうな」
口元を歪めたように笑う顔の、悪いこと悪いこと。
明らかに、脅しの深読みをさせるための言葉と表情で、下っ端をいたぶっている。
ふぅ。
エンチェルクは、吐息をついた。
彼がこなくとも、問題はなかっただろう。
だが、これで報告する必要がなくなった。
直接、彼に話をすることは、いまも難しい。
向こうが、それを望んでいないのだから。
逃げて行く男の背中を、ちらと見送った後。
ヤイクが、こちらを向いて歩き出す。
一瞬、どきりとしたが、彼はそのままエンチェルクの横を行き過ぎるのだ。
三歩行き過ぎて。
その足が、ぴたりと止まる。
振り返ることのないその背が。
こう言った。
「さっさと歩け。また変なのに捕まるぞ」
言葉が終わるやいなや、四歩目が踏み出され、彼はどんどん歩いて行ってしまう。
エンチェルクは、茫然としてしまった。
今のは。
独り言じゃ、なかった。
※
方向が、一緒だった。
ヤイクも、ウメのところに行く予定だったのだろう。
町を抜けると、人も少なくなる。
もっと行くと内畑になるので、さらに人が少ない。
エンチェルクは、ただその背を見ながら歩いた。
彼は、ふと足を止めた。
追い抜くことも出来ず、足を止める。
「……」
黙ったまま、周囲の畑を眺めるように、ヤイクは立っている。
何かを見ようとしているのか、それとも考えようとしているのか。
分からないエンチェルクも、黙って立ったまま。
だが。
その時間が、刻々と流れてゆくのは、とても違和感があった。
長い、長い時間、黙ったまま。
さっき。
彼女に言葉を向けたことも珍しいことだが、いまもまたそうだった。
さすがに、長すぎる。
エンチェルクは、表情を曇らせた。
その沈黙と停止に、何か意図があるように思えたのだ。
何かを彼女に見せようとしているのか、それとも、何かを彼女にさせようとしているのか。
周囲を見るも、いつもと同じ平和な内畑だ。
太陽妃が手掛けた、新しい野菜もあるようだが、詳しいことはエンチェルクには分からない。
分からないということは、勉強不足ということだ。
それを、ヤイクは自分に思い知らせたいのだろうか。
いや。
もっと、何か。
エンチェルクは。
自分の心臓に強い高鳴りを感じた。
分からないというのならば。
聞けば。
聞けば、いいのだ。
それは、とてもとても強い心がいるもの。
だが。
今日、ヤイクは自分に声をかけた。
それが、彼女の唇を震わせる。
「何か……面白いものでもありますか?」
微かに、声が上ずってしまった。
※
「何か……面白いものでもありますか?」
馬鹿なことを、聞いた気がする。
何故もっと、気のきいた言葉を選べなかったのだろうか。
一生懸命、彼に向けて言った言葉が、こんなものなのだ。
言葉の後の沈黙は、一瞬が永遠に感じるほど長く、そしてその間に、エンチェルクの心は沈んでいったのだ。
なのに。
「いや……何もない」
言葉が、返される。
テルの護衛として旅立って以来、やっとまともに言葉を交わした気がした。
その前は、自分から語りかけることはなくとも、わずかながらに言葉を交わすことは出来ていたのだと、ふとこの時に思い出せた。
旅立ってから、ウメとひきはがされた苦痛で、エンチェルクはかたくなになっていた。
旅の中で、いろいろなことがあったが、彼女はこの男との語り方を完全に忘れてしまい、ついにはあらぬ方を向いて語ることで心の平穏を保つ方法を覚えたのだ。
そんな自分が。
いま、長い長い時間を経て、ヤイクと直接話が出来た。
他愛のない、この国にとって何の意味もない話を。
彼は、再び歩き出し、エンチェルクも慌てて足を踏み出した。
まだ。
胸が飛び跳ねている。
無視されたら、どうしようと恐れていた。
無視されたならば、この振り絞った勇気は地に落ち、しばらくこの男との会話は、間接的であってもすることは難しかっただろう。
自分との身分の違いの溝を、また覗きこむだけの結果となったのだ。
弾む心臓を押さえながら、エンチェルクはほっとしようとした。
自分のしたことが、間違いではなかったのだと落ち着こうとした。
こんなことなど、ヤイクにとっては取るに足りないことなのだ。
当たり前に、町民と話をするではないか。
せいぜい、自分から声をかけるなんて、珍しいと思っている程度。
会話が成立したなんて、当たり前すぎる不自然な話は、ウメにも出来はしない。
それでも。
エンチェルクにとっては、特別な出来事だった。
※
「あら……」
二人が歩いてくる姿を見たウメは、少し意外そうに、そして少し嬉しそうに笑いかけた。
「やあ、ウメ」
「楽しい話のようね……そんな顔をしているわ」
自然に交わされる言葉。
壁も溝も、そして身分の差も、そこにはあるようには感じない。
お互いを尊重する、薄い布だけが間に流れる関係に見えた。
「楽しい? そうかもしれないな……召集令状だよ、ウメ」
懐から取り出される書状は、2通。
「あら、まあ」
それを見て、ウメは目を大きく見開いて笑った。
「ありがたく、頂戴致します」
低く腰を屈め、両手で捧げ持つようにして、うやうやしく書状を受け取る。
「どちらの殿下の書状から、お読みすればよろしいかしら?」
テルとハレ。
だから2通あったのか。
「片方は、すこぶる短く、もう片方はすこぶる長い手紙だよ」
的確なヤイクの言葉に微笑んだ後、ウメが視線でエンチェルクを呼んだ。
側に近付くと。
「持っていてくれるかしら?」
渡されたのは、ハレの書状だった。
なるほど。
ウメは、短い方から読むつもりらしい。
大事に、書状を預かる。
テルの書状を、たおやかな指先で開くや、ふふふと微笑んだ。
「どなたに似られたのかしら、あの方は」
ウメの愉快そうな問いに。
「間違いなく夕日様ですな……」
ヤイクは、誇らしそうに見えた。
エンチェルクに見せるように渡されるテルの書状には、一言こう書いてあった。
『手伝ってくれ』
『手伝え』ではなく、『くれ』がついているところで、ウメへのお願いを表しているのだろうか。
一体、何を。
その理由は、おそらく。
ハレの方の書状にあるのだろう。
※
ハレの書状は外で読むには長いようだったので、ウメを家の中に入れ、座らせた。
ヤイクは、もう用事は済んだとばかりに帰ってしまったが。
エンチェルクは、彼の不在にほっとしながらも、心のどこかに隙間も覚えていた。
「忙しくなるわね」
学問の町を作る。
書状には、それが詳細に書かれていた。
出来うる限り、国庫の負担を少ない形で。
そのためには、民間から出資者を募るのが一番だ。
ウメが、これまで育ててきた飛脚問屋のパイプが生きてくる。
法整備に尽力をするのは、ヤイク。
協力者は、太陽妃。
以前、ウメが飛脚の制度を構築した時より、もっと大がかりな規模の計画が、ハレの書状には書かれていた。
その文字の流れを、彼女は愛おしそうに眺める。
ウメが、祝福を与えた太陽妃の息子。
我が子のように、思っているのだろう。
そんな、穏やかな時間は、簡単に壊される。
「たびたび、邪魔するよ」
帰ったはずのヤイクが、再びやってきたのだ。
エンチェルクの心臓は、大きく飛び跳ねた。
一体、何の用があるというのか。
「ここを訪ねてきた人間に、ばったり出会ってね」
何だろう。
ヤイクの言葉に、微かに棘を感じる。
エンチェルクに声をかけてきた男に対する皮肉ったらしい言葉ではなく、純粋な棘。
余り、好ましい相手ではないのだろうか。
そんな相手を、何故彼はわざわざ案内してきたのだろう。
まさか、天の賢者では。
自分の思いついた事に、はっとする。
緊張の面持ちで、訪ねてきた人間とやらが現れるのを待つ。
彼女の予想は──間違いだった。