求愛
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バルコニーから歌声で呼ばれて、ハレははっと顔を上げた。
夜にも映える、白い髪。
身体は、ますますしなやかに磨きをかけられていく。
トーの教育の元にいる彼女は、二階や屋根の上などものともしない。
空に境界がないように、彼らが本気になればこの宮殿の警備など、簡単に抜けてくるのだ。
「こんばんは、ハレイルーシュリクス」
硝子戸を開けると、彼女は踏み込んでくることなく微笑む。
中に入るのを、トーに釘を刺されているからだ。
今日は少し風があって。
開けると、部屋にさっと風が吹き込んできた。
それは、ハレの机の上の紙を跳ね上げさせ、はらはらと床に落ちる。
「お勉強?」
そんな紙の踊りを、彼の肩越しに覗きこみながら、コーは興味深そうに目をくりくりさせた。
これは、ウメのおかげだろう。
彼女は、勉強を好きになったようだ。
コーは、言葉を覚えるのに天性の才能がある。
だから、理論だてて言葉で飲み込ませると、おもしろいほど飲み込むという。
母である太陽妃からも、人の語った言葉をいつでも辞典のように引っ張り出してくると聞いた。
生きる辞典。
「勉強じゃなくて……提案書だよ」
傍らには、文献やウメに贈られた本。
それらを参考にしながら、テルへの提案書を作成していたのだ。
「学校を中心とした、町を作ろうと思ってね」
弟と話した時に出たその計画を、ハレが書き起こしているのだ。
「町? 町を新しく作るの!?」
コーは、町が出来る瞬間を知らないと言い、とても興味深そうに身を乗り出す。
それは、ハレも一緒だ。
一般の学問と、各種技術の専門家を養成する町。
基金を設立し、新たに生まれた知識や技術を、国に売ることで自立する町を作るのだ。
その熱い思いを、ありったけコーに伝えたかった。
しかし、ここはバルコニー。
長い間、語り合うには余り向かない場所だ。
「中に……入らないかい?」
ハレは──少し懲りない男になることにした。
※
「でも……お父さんに……」
コーが、言い淀む。
言葉を愛する彼女が言い淀むということは、心が言い淀ませているということ。
入りたい気持ちは、きっとあるのだろう。
「じゃあ、お父さんと直接話をしよう」
彼女が、後でトーに怒られてはかわいそうだ。
それなら、直接彼に言えばいい。
「トーを呼べる?」
問いかけであったが、それはどこか確信だった。
きっと、それくらい彼らは出来るに違いないと。
コクリと、コーが頷く。
「呼んでくれないかい?」
彼女は少し戸惑った後、くるりと外を向いた。
バルコニーに両手をかけ、身体に力を込めたのが分かる。
「───」
空気を。
空気を、大きくたわませるだけの振動。
音にならないうねりのようなものを、ハレは見た気がした。
少し待った後。
コーが、こちらを振り返る。
「もうすぐ……来るみたい」
落ち着かない表情を、ハレに見せる。
「心配しなくていいよ。大丈夫だから」
「心配してないけど……何だかちょっと……恥ずかしい」
ぽぉと、はにかむコーの真後ろ──バルコニーの手すりの上に、トーが立っていた。
おかげでハレは、可愛らしい彼女の姿を噛みしめることも出来なかったのだ。
「久しぶりだね、トー」
手すりから降り、コーの横に立つ彼に声をかける。
成人の祭り以来だろうか。
「ああ…」
相変わらず、静かでよく通る声。
祭りの間中、その声で歌ってくれた。
「コーを、今後私の部屋に入れたいのだが、許可をもらえないだろうか?」
真正面からの問いに、しばらく彼は沈黙した。
ちらりと、コーを横目に見る。
そして。
こう言った。
「まだ早い」
※
「まだって…何が早いのかな?」
ハレは、引かなかった。
何をもって、早い遅いを言っているのだろうか。
彼女は、既にいつ結婚してもおかしくない姿をしている。
「まだ……コーは、本当に理解はしていない」
「もう、コーはちゃんと社会の事は分かり始めているよ」
彼女は、沢山の知識を得ている。
その心には、ハレへの気持ちも生まれていると思っていた。
トーが娘かわいさで心配なのは分かるが、いつかは来る日なのだ。
そしてハレも、いつかは突破しなければならない相手でもあった。
そのいつかが、今日でもいいではないか。
「急ぐ必要は、何もない」
壁は、強固だった。
自分たちが、制約なく長く生きられる事を、トーは知っている。
それは、勿論コーにも適用される。
普通の人よりも長い一生を、ゆっくりゆっくり使っても、何ら問題がないと思っているのか。
問題があるのは、ハレだ。
「私の一生は、普通の人とそう大きな差はないよ」
老いるのは遅いが、テルの賢者が全員死ねば、ハレも髪を切らねばならないからである。
「では……」
トーは、まっすぐに自分を見る。
「では……言うべき言葉を、コーに言うといい」
言葉の内にまぎれたものを察せよというのではなく、唇に音として出せと彼は言うのだ。
言葉は、彼らにとっては大事なもの。
それを、コーに伝えてみろと。
いつかは、来る日だと思ったではないか。
ハレは、彼女の方へと向き直る。
「コー……」
息を、整える。
「コー……私と結婚してくれないか?」
イデアメリトスを。
離れる覚悟なら、とうに出来ていた。
※
コーは、頬を赤らめた後、何か考えるように首を傾けた。
ふと、胸の隙間に風が吹く。
言葉にしがたい何かが、駆け抜けてゆく。
「ハレイルーシュリクス……」
彼女は、自分を向き直った。
自分がコーに求婚したさっきのように、まっすぐと。
「私は、ハレイルーシュリクスの子どもが産みたい」
何と。
動物的な答えなのか。
ハレが、面食らってしまうほど、分かりやすい求愛の言葉。
だが、同時に──いま、二人の間でずれているものが何なのかに気がついた。
「でも……結婚というものは必要じゃない」
それが、困った眉と言葉によって証明される。
ああ。
そうか、と。
ハレが彼女にしたのは、求婚。
彼女が自分にしたのは、求愛。
求婚の中に愛は含まれているが、求愛の中に婚姻はなかった。
制度としての結婚を、彼女は学んだ。
しかし、それを必要としているのは人の社会だけだ。
動物たちは、それぞれの動物たちの基準で愛を決める。
一度限りで終わるもの、長く続くもの。
彼らは、制度に捕らわれることなどない。
コーも。
ひいては、おそらくトーも。
婚姻というただの制度に、何の思いも見いだせないでいるのだろう。
求婚が彼らにとっては無意味なのだと、ハレは今日初めて気づいた。
籠に入らない月。
たとえ入れられたとしても、その身を消すほど細くして、籠の隙間からいつか出て行ってしまう。
最初の考えが、間違っていたのだ。
「言い直すよ」
ハレは、一歩進み出た。
そして、コーの両手を軽く握る。
「私はコーに、恋焦がれているよ」
夜空の月の下。
ハレは、彼女に求愛した。