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武の賢者宅

 ロジアは、ヤイクの屋敷に住まうはずだった。


 ていのいい軟禁状態なのだが。


 それを、軽く蹴飛ばしたのは。


「いや、うちの方がいいな」


 キクだった。


「次郎のこともあるし、うちなら何の問題もないだろう?」


 軽い言葉だったが、見事にヤイクへの牽制にもなっている。


 いま、彼女の逃亡を防ぐ材料は、キクの子くらいしかないのだ。


 それと引き換えに、ロジアの監視を緩める気だろう。


 都へ来ることは賛成するが、何もかもまつりごとの思い通りにはしない。


 それが、キクの正義なのか。


「心配するな……エンチェルクも一緒ならいいだろう?」


 思案しているヤイクに、キクはもうひと押しする。


 突然、話の中に自分の名を出され、彼女はどきっとした。


 まるで。


 自分が、ヤイク側の人間だと言われた気がした。


 それは、悪い意味ではなく。


 お前の味方も置いておくから、文句を言うな、と。


 これまで、ウメの味方だった。


 それから、この国の味方になった。


 結果的に──ヤイクの味方になったということでもあるのか。


「分かった……」


 彼は、キクの提案を受け入れた。


 国の都合で彼女を呼び出し、利用することよりも、自発的に協力させ、長い付き合いになる利益を優先したのだ。


 利害でヤイクは選択したのであって。


 エンチェルクが、彼の不利益になることはしない──そう思ったからではないだろう。



 ※



 武の賢者は。


 妻の帰還を待っていた。


 ヤイクの回した荷馬車が賢者宅に入った時、先触れを出してくれていたのか、彼は玄関の前に立っていた。


 エンチェルクには、決して手に入らない、鍛え抜かれた肉体を持つ男。


 キクが、彼の前に立ち。


「遅くなった……」


 見上げながら、そう夫に言葉をかける。


 どんな表情をしているのか、エンチェルクには見えなかった。


「ああ……無事で何よりだ」


 目を細める賢者は、剛の剣を振るうものには思えない穏やかさがある。


「ロジア、赤ん坊を見せてやってくれ」


 キクが振り返って、彼女を呼ぶ。


 乳の時以外は、本当にずっと彼女が抱いていた。


 近づく彼女の容姿など、賢者の目には入っていない。


 見つめているのは、その腕の中。


「ジロウですわ」


 ロジアが、眠る赤子を見せる。


「ああ、いや…それは」


 キクが、少し困ったように説明しようとする。


 彼女は、仮の名としてつけたと言っていたが、いつの間にか周囲に定着してしまっていた。


「ジロウを、抱いてもいいか?」


 そしてまた、彼も異論をはさまない。


「首はすわってるから大丈夫だ」


 自分の夫のおおらかさに、キクは苦笑で答える。


 ロジアは、ジロウに固執はしているが、キクが本当の母であることをないがしろにはしなかった。


 日々、彼女が荷馬車の中で、小さな赤子に乳をやる姿を見ていたせいか。


 だから。


 父である賢者に、ちゃんとジロウを差し出した。


 大きな大きな手が。


 小さな小さな身体を抱く。


「よく来たな、ジロウ」


 呼びかける低い声。


 この子の名は──ジロウとなった。



 ※



「はじめまして、次郎」


 エンチェルクが居候している武の賢者宅に、赤子を祝福する客が現れた。


 一番最初の客は──ウメ。


 伯母である彼女は、たくさんのおむつと、御守袋なるものをこしらえてきていた。


 ウメらしい気遣いと、愛にあふれた贈り物だ。


 懐かしげに、赤ん坊を抱く。


 きっと、モモを産んだ時のことを思い出しているのだろう。


 彼女の後ろから、二番目の客であるコーが現れる。


「次郎、とっても可愛い」


 小さなヒナ鳥を慈しむように、彼女は赤ん坊を覗きこむ。


 にこにことしていたコーの目が、ふっと、近くのロジアに向けられる。


 その細い首が、斜めに傾いた。


 何かを考えるように。


 とことこと、ロジアの前に立つ。


「身の内の毒を……抜きませんか?」


 その瞬間の。


 ロジアの顔は、はっきり見えた。


 青ざめるでは追いつかないほど、彼女の血の気は引き、恐ろしい生き物を見る目になったのだ。


「何の話かしら?」


 震える唇でコーを拒絶し、ロジアは部屋を出て行った。


 ジロウがいるにも関わらず出て行くということは、よほどの衝撃だったのだろう。


「どうしたの? コー」


 そのやり取りを見ていたウメが、問いかける。


 それに、コーが困ったような眉になった。


「身体の中に、昔の毒が沈殿してます。抜かないと、きっとあの人は死ぬまで苦しい思いをするでしょう」


 昔の、毒。


 この国で、普通の人間が毒に接することはほとんどないだろう。


 ということは、もっと昔。


 ロジアが、この国に来る前の話か。


 かの国は──子どもを一体どんな環境に置いておいたというのか。



 ※



 三番目のお客は──太陽妃だった。


 ジリアンを伴って、若々しい緑の苗木の贈り物を抱いてくる。


「道場の近くに植えよう」


 キクは、そう言って微笑んだ。


 この屋敷の庭に、植える気はないようだ。


 ここは、借り物の官舎に過ぎない。


 いつか出て行くところだと分かっているから、太陽妃もこうして苗木のまま抱えてきたのだろう。


 そこへ、ようやくロジアが帰ってくる。


 コーを避けるように、ジロウの側へと戻るのだ。


 どれほど居心地が悪くとも、そこにいなければならないように。


「こんにちは、ロジアさん。景子と申します」


 太陽妃は、初対面の彼女に挨拶を向ける。


 不在の間に、紹介を受けていたのだ。


「ロジアですわ……どうぞよしなに」


 彼女は、相手が誰か分かっていないような挨拶をする。


 この国では奇妙な、短い名前同士の会話。


 しばらくして。


 ロジアは、幾度か怪訝な表情をした後に、扇を広げてキクに何かを耳打ちした。


「ああ、そうだね」


 大らかに頷かれ、ロジアは呆れた表情をした。


 その呆れ顔を、何とか押し込めながら、まじまじと太陽妃を見つめる。


 まるで。


 珍獣を見る目、だった。


 この大きな国を統べる者の奥方だと、ようやく理解したのだろう。


 飾り立てられた伝説の人には、とても見えないと言ったところか。


「景子、ハレイルーシュリクスは元気ですか? 今度また、遊びに行きますね」


「元気よ。きっとあなたに会いたがっているわ、遊びに来てあげて」


 そんな彼女に。


 コーが、楽しげにさえずる姿は、それはもう異質極まりなく映ったに違いない。


 扇で隠した口元の向こうで、何とも言えないため息が漏らされる音を、エンチェルクは聞いてしまったのだった。



 ※



 夜、ヤイクが賢者宅を訪ねてきた。


 ロジア宛ての書状を携えて。


 テルからのものだった。


 彼女は、ソファに背を預けたまま、けだるげに片手を差し出す。


 ジロウと離れ別室に来たため、すっかり気力が低くなっている。


 ヤイクの表情は、瞬時に険しいものに変わった。


「これは、次の太陽になられる御方からの直々の書状だ。他国人にそれをありがたがれとは言わないが、礼儀くらいは守ってもよいのではないか?」


 ひどい鞭の一撃だ。


 市井に混じるのを得意とする、風変わりな貴族であるヤイクも、異国の人間を前にすると何もかも変わってしまう。


 それは、港町のロジアの屋敷でも、痛いほどエンチェルクは味わった。


 まつりごとの隙を、決して見せまいとするのだ。


「失礼致しましたわ」


 言葉だけの畏まりではあるが、ロジアはとりあえず両手でそれを受け取った。


 書状を開いた彼女は。


 目を。


 大きく見開いた。


「どういう……ことですの?」


 彼女は、その紙をぴらりと空に掲げる。


 脇に控えているエンチェルクからも、よく見えた。


 まったくの白紙。


 ただの一文字も、書かれていない。


「そのままだ」


 ヤイクも承知しているのか、動じる様子はない。


 一度目を伏せた後、まっすぐにロジアを見た。


「殿下は、異国人であるあなたに…何一つ、要求も強いることもないとおっしゃった」


 憮然とした言葉だ。


 決して、ヤイクがそれを快く受け入れた訳ではないのだと分かる。


 だから、あんな風に最初に鞭を振るったのだろう。


「本当は、我々は数多くの異国の情報を必要としている。しかし、殿下はあなたが子どもの頃に無理矢理連れて来られたということと、その後あの町を愛し、人々にしてきたことを考慮された」


 結果。


「キクかウメのところにいる限り、ほぼ自由の身ということだ」


 最後の最後で。


 ヤイクがねじ込んだだろう言葉が、転げ出た。


『ウメ』


 ロジアが、今日初めて会ったばかりの、キクの姉妹。


 彼が認めるウメを側に置くことで、ロジアの知識を完全に放免する気はない、ということだった。



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