母
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一台の荷馬車が、狂ったような勢いで駆け抜けてゆく。
その中に、エンチェルクはいた。
ヤイクの馬車だ。
その持ち主である彼と、そして護衛の自分。
更に、ロジアとキクとジロウ。
みな、少し煤けて薄汚れてはいたが、ロジア以外は落ち着いていた。
「ああ!」
荷馬車の後部から、燃え上がる屋敷と離れ行く港町に手を伸ばすロジア。
落ちないよう、エンチェルクが捕まえていなければならなかった。
そんな喧噪も気にせず、キクは赤ん坊に乳をやっている。
おなかいっぱいになって満足したジロウを。
キクは、彼女に抱かせた。
まるで。
我が子のように赤ん坊をかき抱くロジア。
もはや、自分がすがれるものが、この子しかないかのように。
ロジアが、強い目でキクを見た。
いやな予感がした。
「キク……キクお願いよ」
涙を流しながら、ロジアは訴える。
「この子を、私にちょうだいな。大事に、本当に大事に命に変えて育て上げるから」
悲痛な、悲痛な声。
聞いている方が、彼女の痛みに巻き込まれて引き裂かれそうだ。
なのに。
なのに、キクは笑っている。
「……私は次郎の母だ」
優しく、しかし少し愉快そうな声。
「なりたいと言うのであれば、ロジアも母になればいい。母は何人いてもいいだろう?」
猛烈な速度で駆け、揺れる荷馬車の中。
この小さな赤子に。
二人目の母が出来た。