火
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「火がついたようだな」
ヤイクは、鼻で何かを嗅ぎわけるようなしぐさをする。
そうするまでもなく、焦げた熱っぽい匂いは、扉を開け放したままの部屋に届く。
轟音が起きた。
建物の中でも、屋敷の外でも。
母が、山追の子を呼ぶ声が響き渡る。
だが、最初の襲撃以来、この部屋に誰も訪れないということは、母と桃が見事に防ぎきっているということ。
「あの大きな音は何だろうな」
こんな危険な状況であっても、ヤイクは冷静に物を考えている。
己が、戦いの場面では無力なのだと、理解しすぎているからだ。
「分かりません」
人が金属をぶつけ合うだけでは、決して出せない音。
リリューには、想像もつかなかった。
「ふむ……新型の武器かもしれんな……異国の」
それなら、合点がいく。
ヤイクは、どこか独り言めいた言葉を呟く。
その後。
ふっと辺りを見回した。
何か、物足りないように。
「あの二人が、苦戦しているようです……考えられます」
反応が欲しいのだろうか。
リリューは、思いつく程度の言葉を返した。
あの母とモモを、退け続けるのが、どれほど大変なことか。
接近戦であれば、なおさらだ。
それほどの手練れがいるのか、もしくは接近戦が出来ないのか。
「私を、あっちまで護衛してくれるか?」
少し計画を変えようと思っているのか。
しかし、ヤイクの曖昧な表現では、リリューには『どっち』のことか分からなかった。
それに気づいたのだろう。
彼は、ひとつため息をついて、正しい言葉で言い直すのだ。
「私を……エンチェルクのところまで護衛してくれ」
母やモモの最前線ではなく、もう一つの計画を待っている彼女の方。
呼び慣れない名は──言葉にしづらいのか。
※
その部屋には。
エンチェルクとロジアと──赤ん坊がいた。
平然と立つエンチェルクの側のソファで、ロジアは全てを恐れるように、赤ん坊をぎゅっと抱きかかえている。
ジロウだと、すぐに分かった。
母の言う、『一番安全な場所』
それは、ロジアの腕の中だったのか。
母らしすぎて、リリューは笑みがわき上がるのを止められなかった。
彼女は異国人で、そして、敵になるか味方になるか、はっきりと分からない立場の人間である。
そんな相手であったとしても、母はこの屋敷に留まり続けたし、我が子を預けたのだ。
彼女が、決して弟を害さないと──信頼しきっている証。
「爆弾が使われたなら……もう屋敷には火がついていてよ」
彼女は唇まで真っ青にしたまま、ぶるぶると震えている。
思い出して、いるのか。
燃え盛る町の、あの日のことを。
「ほう、爆弾と言うのか。興味深いな」
「そんな悠長な事態ではないわ。早く逃げないと、この子が死んでしまってよ」
ひどく狼狽して、落ち着かない様子だ。
だが。
自分の命ではなく、ジロウの命の心配をしている。
火傷の跡を見る限り、彼女自身も炎には恐ろしい思い出があるだろうに。
「まだ、逃げないよ」
震える彼女の横に、ヤイクは腰を下ろした。
「下の騒乱が片付いて、この屋敷が炎に包まれたら……あなたは、私と一緒に都へ行くことになる」
おそろしく、ゆっくりとした言葉。
ああ。
リリューは、彼の言葉の意味を噛みしめた。
それが、もう一つのヤイクの計画。
誰にも知られず、しかし、死んだと思わせるような状況で、この女性を連れ去ること。
ロジアを祖国から、完全に切り離し。
そして。
この国に協力してもらうべく、ヤイクが立てた計画だった。