信じることから
@
エンチェルクは──ヤイクの部屋にいた。
そうすべきだと、思ったのだ。
ロジアは、この屋敷に泊って行くように言い、ヤイクもまたそうさせてもらうと答えた。
敵のド真ん中で、武力の低い男を一人で放っておけるはずがない。
この時ばかりは。
ヤイクが、自分に直接話をする男でなくてよかったと思った。
彼は、エンチェルクに『出て行け』とは言わないからだ。
殴り合いで、ヤイクが優勢で終わった最初の会合は、陣取り合戦に過ぎない。
問題は、この空白の時間だ。
次にどういう手段で来るか、ゆっくり考えられ、準備でき、行動できる時間が、いま彼らにはある。
結果次第では、命の取り合いもありえる。
「あの女は……」
彼の声に、どきっとした。
独り言だ。
分かっているが、エンチェルクにも聞かせるための言葉なのだろう。
二人きりであるため、ごまかしようのない事実に、いたたまれない気分になる。
「あの女は……死んだ方がいいかもしれんな」
そんないたたまれなささえ、簡単に打ち砕くほどの音が、続いてしまった。
あの女──ロジアのこととしか、考えられない。
この町の実権を握り、異国と情報のやりとりをしているだろう彼女を殺すというのか。
驚きながらも、わずかな違和感が、エンチェルクの胸を刺す。
考えるのよ。
自分に、そう言った。
彼の言葉には、短絡的ではない何かが含まれているはずだ。
この男は。
それを、エンチェルクに考えさせようとしている。
だから、あえて言ったのだ。
難問に夢中になっていて。
気が付いたら。
ヤイクは、ベッドで深い眠りに落ちていたのだった。
感心していいのか呆れていいのか、よく分からない気持ちで、彼女は男を見下ろす。
こうしていると、ウメのところにやってきた頃の、子供の面影があった。
※
ヤイクが家督を継いで貴族となるまで、エンチェルクはほとんど毎日、彼と顔を突き合わせていた。
口達者でマセていて、そして彼女とはほとんど話をしない貴族の坊ちゃん。
そんな子供に、ウメは容赦なかった。
血筋も将来のことも、何ひとつ考慮に入れず、媚びもせず、多くの知識を見せ、そして考えさせた。
対してヤイクは、文句も言うし不平も言うし、怒りが沸点に達し、貴族的にウメを罰そうとしかけたことさえあった。
『全て、あなたのおっしゃる通りです、という取り巻きだけでよいというのならば、どうぞおうちへお帰りなさい』
彼女の、あの強さは一体どうしたら習得できるのだろう。
エンチェルクは、ようやく自分の国を愛すという種から芽が出たばかり。
水と光と栄養を与えて、この芽を大樹に育てなければならない。
『あなたに何が出来るか、ではなく…この国と国民に何が必要か、が最初ですよ』
ヤイクが奇抜な提案を持ってくる度に、ウメは読み終えた後にそう諭していた。
そして、ついに貴族の坊ちゃんは──町に出た。
それが、彼なりに出した答えだったのだ。
貴族というしがらみを踏み越えるのに、この男はどれほど葛藤したことだろう。
そしていまなお、自尊心と誇りも捨てないまま、誰よりも庶民を知る貴族となったのだ。
適材適所で人を使い、一旦任せると決めたら信じきる。
そんな男であることは、あの長い旅路で知ったではないか。
いま。
いま、ヤイクがぐっすりと敵地で眠っているのは。
護衛という点について、エンチェルクに全権を任せたということだ。
言葉にはされないが、そういうことなのだ。
『あの女は……死んだ方がいいかもしれんな』
そんな男が、こう言った。
これを解くカギは。
きっと。
エンチェルクが、この男の適所である政治の判断を、全て信じるところから始めなければ。
そうでなければ。
間違う気が、した。