故郷
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リリューは、町を歩いていた。
母が言った。
『好きなだけ、歩いてくるといい』
夕日は、西の山の方へと傾いている。
青いはずの海が、この時は橙色に変わる。
帰ってくる漁船のおこぼれを預かろうと、空には海鳥が飛び、漁師の子供が自分の親の船を待っている。
自分と同じ肌の色も多く、つい一人一人の顔をまじまじと見た。
勿論、知った顔などありはしない。
ふるさとを離れたのは、余りにも小さい時すぎて、誰の顔もはっきりと心に残っていないのだ。
実の親の顔でさえ、うまく思い出せない。
「変な男だね」
桟橋近くで、初老の女性にじろじろと見上げられる。
不審な態度を取っているつもりはなかったが、おかしく見えるのだろうが。
「そんな肌の色をしてるくせに、この町の人間じゃないなんて。お前さんは、一体どこの商人の血筋だい?」
問われて、驚いた。
まるでこの女性は、町の人間全部を、知っているかのような口ぶりだったのだ。
海辺の人間で、町を離れるのは商人だけとでも、言わんばかりに。
「小さい頃まで……ここにいました」
リリューの言葉に、女性は口をへの字にひん曲げた。
「ああ、そうかい」
言葉にされない部分を、リリューは彼女と共有した。
「離れて以来、初めて来たのかい?」
何かを避けるように続けられる言葉に、小さく頷く。
「じゃあ……おいで」
こんな大きな男の手を、彼女は握って引いた。
一歩あるくごとに、どんどん自分が小さな子供に戻っていくような気がした。
彼女も、若返って行く気がした。
一番奥の奥に、船の係留されていない桟橋があった。
誰もいない、しんとした桟橋。
「この町の子だったなら……泳げるね?」
彼女は、そこで振り返って言った。
頷く。
「一度だけ……行っておいで。太陽が沈みきる前に帰ってくるんだよ」
気づいたら──服のまま飛び込んでいた。
※
水。
身体中に、まとわりつく水、水、水。
一瞬、重力の向きが分からなくなる。
夕方の橙色の太陽が、水の中の世界をも黄昏色に塗りつぶすそんな水中で。
リリューは、見た。
海底に並ぶ、おびただしい数の──墓石を。
ああ、ああ。
『どうせ死ぬなら海で死ぬ』
彼の脳を激しく揺さぶる、記憶の言葉。
それが、港町の男たちの口癖。
その願いをかなえるために。
町の人たちは、彼らの墓を海の中に作ったのだ。
勿論、遺体はここに埋まっているわけではない。
しかし、彼らの魂をここで慰めたいと、生き残った人たちはそう思ったのだろう。
港町の人間以外、ほとんど泳げないこの国では、この光景を目に出来る者は少ない。
あの悲劇の日を知っているのは自分たちしかなく、そして、自分たちだけでいいという町の心が、この景色の中にあった。
リリューは。
誰のものとも知らない墓石に、しがみついた。
長い歳月は石を浸食し、彫られていたかもしれない文字さえかき消している。
墓石には小さな貝がつき、小魚が隙間を縫って泳ぐ。
帰って、きました。
リリューは、石に額を押し付ける。
長い間、無沙汰をしました。
町の人の誰ひとり、きちんと思い出せなくとも、誰からも彼自身が覚えられていなくとも。
この水の中こそ、間違いなくリリューの故郷だ。
やっと、彼は故郷に帰りついたのだ。
差したままの定兼が、息を吐いた。
わずかに鍔が揺らいだのだ。
この場所に定兼もまた、何かを思ったのか。
リリューは、こう思った。
私は死んだら。
海になろう。