獣の神
∞
「よぉ、モモ」
ノッカーを鳴らして、即座に扉を開けるとは、随分な無作法だ。
そんなことをやってのけるのは──カラディくらいだろう。
ソファによりかかり、イーザスからの一発の療養中だった桃は、はぁとため息をついた。
本当にしつこい、と。
「驚かないところを見ると……やっぱり知ってたんだな」
ここは、ロジアの屋敷。
彼が、我が物顔で堂々と歩いているということは、すなわちそういうことなのだ。
「何の用ですか?」
桃は答えず、別の疑問で返した。
ここは、伯母の部屋でもある。
リリューは出かけていないが、伯母と次郎はすぐ近くにいて、この無作法者を見ているのだ。
「男が女のところに来る理由なんざ、ひとつだろ? 一緒にメシでも行かないか?」
二人の間には、明確な線が引かれているというのに、この男は何を言い出すのか。
「生憎、誰かさんの友人に殴られたおなかが痛いので、何も食べられそうにありません」
桃は、あらぬ方を見ながら、皮肉を持ち出す。
とりつくしまなど、与える気もない。
なのに。
「そのメシとやらは……私でも構わないか?」
よりにもよって、伯母が絡んできた。
え、ちょっ!
「伯母さま、次郎はどうするんですか!?」
慌てて桃は、彼女を引きとめようとした。
こんな問題児と一緒に食事なんて、何を仕込まれるか分かったものではない。
「連れてけばいいだろ?」
あっさりと。
何の問題もないとばかりに、伯母は言い放つ。
品のよい食堂に行くのではない。
酔っ払い渦巻く酒場に連れて行かれるに違いないのに、そんなところに次郎を連れていくなんて!
だから。
つい。
反射的に。
「お、伯母様が行くくらいなら、私が行きます!」
そう答えてしまっていた。
※
何で、こうなった。
桃は、テテラの家の酒場で、仏頂面になっていた。
「メシが、まずくなるような顔するなよ」
向かいの席のカラディにだけは、言われたくない。
大体、伯母は何を考えていたのか。
おそらくこの男との話に、何らかの興味を覚えたのだろう。
ロジアでさえ、彼女にとっては警戒すべき相手ではないのだから。
酒だけは絶対飲まないと宣言した桃の前には、果物のジュースが、カラディの前には穀物酒が。
「まったく、偉いのを連れてきてくれたもんだぜ」
そんな状態で、彼は本気でいやそうな顔と声でそう呟いた。
カラディの方が、酒がまずそうな顔をしている。
ヤイクのことを、言っているのだろう。
会見の状況は聞いていないが、この男の様子を見る限り、彼らの側には良い結果ではなかったのか。
桃は飲み物を口につけないまま、彼を見た。
「あなたは、何をしに来たの?」
ロジアと無関係を装っておけば、疑いの度合いも下がったかもしれない。
桃が疑っている人間が二人、関係しているところをヤイクに見せれば、それだけで真実だと教えるようなものではないか。
「変人卿とやらを、見てみたかったのさ」
貴族の情報は、貴族から聞けるからな。
変人卿。
すごい言われようだ。
おそらく、ヤイクのことをよく思っていない貴族から聞いたのだろう。
確かに、相当風変わりな人らしいが。
「あれは変人というよりは、骨の髄から政治家だ。おまけに、この国のためなんて余計な大儀を、本気で抱えてるんだから目障りだ」
忌々しい唇。
自分にないものを、彼はヤイクに見たのだ。
それが、腹が立ってしょうがないようにしか見えない。
彼には、強さはあっても大儀はない。
彼には、故郷はあっても愛国心はない。
宙ぶらりんの個人としての強さを、ヤイクに打ち砕かれたのか。
「あいつを殺せたら、どんなにすっきりするだろうな」
酒をあおりながら、カラディはこともなげに言った。
「あなたの首と胴が離れるのと、どっちが早いでしょうね」
桃も──こともなげに答えた。
※
「ああ、腹が立つ腹が立つ……何助けあってんだ、お前たち?」
木のジョッキを、机にゴツゴツぶつけながら、カラディが語気を荒くする。
「あいつは、貴族で政治家だぞ? 一般人なんか、所詮駒に過ぎないし、都合が悪くなったら見殺しどころか生贄にだってされるんだぞ?」
椅子の下で暴れる足が、桃のすねを蹴った。
黙って蹴り返す。
「あの人が立派な人だなんて、私も言いはしないけど、少なくとも何の肩書きも持たない人間の意見を、政治に反映出来る人よ。あなたの知る政治家が、どんな人間かは知らないけど、勝手にあてはめて言わないで」
ヤイクは、母の知り合いだ。
異国人であった母から、その知恵を得るために連れてこられた、貴族の子だったという。
お互い、まったく違う性質の二人だったが、それぞれの仕事をこなし、この国をより良く変えたのだ。
彼の否定は、母の否定でもある。
桃は、それだけは許さなかった。
「お前に、異国人の気持ちが分かるか」
それが最後の砦とばかりに、ついにカラディが線を踏み越えた。
自ら、初めて認めた言葉。
桃は、飲んでもいないジュースのジョッキで、どんと机を叩いた。
「私は、その異国人とやらの子よ」
一瞬ジョッキから跳ねる、赤紫の液体。
時が。
ジョッキから浮いた液体が、空中にある間。
時が、止まった気がした。
カラディが信じられない目で、桃を見ている。
「この山本桃、身体に流れる血の半分は、日本国のものよ」
てやんでぃ、べらぼうめ!
何故か頭の中に、聞いたことのない響きがよぎった気がした。
きった大見得の向こうで。
カラディが、呆然としている。
「おとぎ……話じゃなかったのか。神殿がでっちあげた、太陽妃の……ニホントウなんて、適当な名前をつけられた新しい刀の宣伝をしてるわけじゃ……」
混乱の言葉の中、桃は彼の目に同種のものを見る色を見出した。
日本なんて国を、本当に信じていたわけではないというのに。
会いたかったと。
言われた。
気がした。
※
はっと。
カラディは、己を取り戻したように、桃から目をそらした。
何でもないと。
いま、自分の目によぎったものは、何でもないのだと、自身に言い聞かせるように。
「桃を見る限り……ニホンって国は、おめでたい国なんだろうよ」
そして、更に別の布で隠すべく、悪口を言い出す。
「自然の中にいる神様を信じている、働き者の国だって母は言ったわ」
残念ながら、桃は見たことはない。
「神……か」
彼は、その言葉の前で足を止めた。
しばらく、そこで立ち止まった後。
「獣の神を信じていて、みな気が荒く……毒にまみれた国だった」
初めて。
初めて、カラディが祖国の話を、した。
「弱肉強食を良しとする獣の神は、強いものこそが神に近い。金持ちや貴族は、平民の反乱を制圧するために、それぞれ独自の軍隊を持っていた」
かけたはずの布を。
気づけば、彼は引き裂いてゆく。
心の底に沈んだ澱を見るように、彼は幼少時代を言葉にしてしまった。
「俺やロジアは……親に金で売られた。この国には、ない言葉の階級の人間だ」
酒に、口をつける。
この男の、ロジアの、イーザスの。
桃の出会った異国人の根っこが、そこに垣間見えた。
ずる賢さと、自分の物への執着と、生き延びることだけを勝ちとする神が、彼らの中にいる。
ロジアは、この町と人々を自分のもののように執着し、イーザスはテテラに、そしてカラディは自由な立場へ執着した。
それが、彼らの生きるための源なのだ。
桃の根元と、何もかも違う国の人間。
何を話しても、自分とはとても話が合うとは思えない。
けれど。
そうだけれども。
桃は、カラディとのこれまでのことを思い出していた。
気のせいかもしれないが。
この男となら。
ごく当たり前に、言い争いや喧嘩が出来るような気がした。