堂々たる未熟者
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朝早く。
桃は、屋敷を出た。
クージェを町の端まで、見送るためだ。
彼は、しっかりとフードをかぶっていた。
ついに頭を隠せること、そして領地へ帰れることが、とても嬉しくてしょうがないようだ。
何しろ、これまでまったく頭を隠さない二人と一緒だったのだから。
この国の、貴族の跡取りである彼には、とてもつらいことだったのだろう。
「イエンタラスー夫人に、よろしくお伝え下さい」
町の西側の門。
桃は、それを強く彼に言うために、見送りに来たのだ。
旅に出る前のような状態に、また戻ろうものなら、という気持ちを込めて。
「わ、分かっている……母とも仲良くする」
彼女の心が伝わったのか、クージェは気色ばむ。
ほとほと、夕日との旅で懲りたようだ。
じゃあと。
クージェが踵を返そうとした時。
「おおい、エンチェル!」
いやな、記憶が、よみがえった。
記憶?
桃は、振り返りたくない気持ちを抱えながら、息を吐く。
「エン……チェル?」
クージェが、何か分からないように、こちらの方を見る。
「いいから、気をつけて帰って下さい」
桃は、そんな彼の背を押して歩き出させた。
振り返り振り返り歩く彼が、ようやく町の門の向こうに出た後。
「上に尾長鷲がいるから、エンチェルもいると思ったぜ」
肩に触れられる気配を感じ、桃はすぅっと身をかわした。
すかっと空振る男の手。
「おっとっと、相変わらずつれない」
かわしついでに身を翻す。
彼女をエンチェルと呼び、馴れ馴れしく近づいてくる男など、たった一人しか知らない。
カラディ。
短い名前の──あのカラディ。
※
ソーがいることが、逆に目印になることもあるのだ。
桃は、空を軽く見上げた。
鷲は、少し高度を低める。
カラディを警戒しているのだろう。
この男と、話をすることはもうない。
桃は、そう思っていた。
だが、この港町で知ったのだ。
彼が、何者であるかを。
どうしよう。
再会することは、想定していなかった。
しかし、よく考えれば、ここはロジアの影響の強い町。
この町ほど、彼が自由に動けるところはないだろう。
頭の中で、引き止めるという心と、近づきたくないという心が交錯する。
「冷たい言葉で、また袖にされるかと思ったが……」
そのわずかな沈黙さえ、この男にとっては口実なのか。
桃は、しょうがなくため息をついた。
「あれだけ言われて、何故また私を探したんですか?」
出来るだけ遠回りに。
向こうは、20年嘘をつき続けた男だ。
迂闊な言い方をすれば、すぐに気づかれそうだ。
「あんなに猛烈に冷たい目で、軽蔑されたの初めてだったからな……三日三晩、怒り狂ったぜ」
ニヤニヤしながら、何ということを言うのか。
殺気はないが、この後さくっと刺されそうな気がして、桃は反射的に身を引いた。
「それがなー、四日目からは全然怒る気にもなれなくてな……気づいたら、ずーっとエンチェルのことばかり考えるようになってたわけだ」
ますます、身を引きたくなるようなことを言う。
「あ、まあ、そう警戒しないでくれ。俺は、紳士だよ?」
もう、三歩下がる。
このまま下がったら、門を越えてしまいそうだ。
「親戚には会えたのか? さっき見送った男は誰だ?」
近づきはしないものの、相変わらず口だけはよく回る。
「親戚には会えました。見送りは、単なる知り合いです」
この、ほんのしばしの会話だけで、桃はどっぷり疲れてしまって。
彼をかわして帰ろうとした。
が。
はたと気づく。
桃の帰る場所は、ロジアの屋敷。
彼女とカラディが、通じているという推測が確かならば。
その上空でソーが飛んでいたら──カラディには、本名がバレてしまうのではないだろうか。
※
「それはそうと……」
上空の、ソーの心配をしていたら。
カラディの視線が、桃の腰に注がれているのに気づいた。
あ。
「エンチェルは…面白いものをさげてるな」
腰の──刀。
今日は、ただの見送り程度だったので、大きなマントを着ていなかった。
要するに、腰のものが丸見えだということ。
「それ……ニホントウだろう?」
鋭い目だ。
尾長鷲を見る時より、熱い瞳と言っていい。
「…習っていますから」
嘘、ではない。
嘘ではないが、腰から上がる視線が、桃の目にまっすぐにぶつけられた時、両足で強く地面を踏みしめなければならなかった。
「風変わりな道場の、風変わりな剣……でも、俺は知ってるぜ。帯刀を許されるのは、難しいんだろう? ということは、エンチェルは強いのか?」
この世には。
心の強い人間がいる。
その強い視線に、桃は分かった。
へらへらのらりくらりとしていたのは、カラディの本性を隠していたせいか。
彼の心の方向が、桃の望まないところにあったとしても、強さだけは見事なものだと思った。
弱い芯では、飲み込まれてしまいそうだ。
しゃんと。
背筋を伸ばす。
「私は、旅に出るために帯刀を許されただけの未熟者です」
刀の腕が強いなど──どうして思えようか。
伯母がいてリリューがいて、既に帯刀を許された兄弟子たちもいる。
彼らに比べれば、腕も心も到底及ぶまい。
だが、刀を預かるこの身は、人に嘲られてはならない。
その嘲笑は、伯母を、そして道場を嘲られることになるのだから。
前の線は決められなくとも、彼女は後ろの線というものを感じていた。
ここから一歩でも下がったら、刀を持つ資格を失う線。
だから、桃は踏ん張った。
「堂々たる未熟者だな……はっはっは、その目をしてこそエンチェルだ」
踏ん張ったその姿は──カラディには、愉快なものに映ったのか。