クージェの道
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桃は、黙ってロジア側の端に立っていた。
リクとクージェは、入口側の端へ。
「ようこそいらっしゃいました。こんな小さな屋敷で、お恥ずかしゅうございます」
艶やかに微笑みながら、彼女は女主人らしく、美しい挨拶を振りまいた。
そんなロジアの顔を、夕日はじっと見つめた後。
「町で一番愛されている女の顔を拝まなければ、土産話にもならぬからな」
非常に失礼な言葉を、堂々と吐いてくださる。
「それは、良いお土産話が出来たでしょう……こんな顔の女ですもの」
だが。
ロジアは、ぞっとするほどの微笑みを浮かべながら、閉じた扇の先で、自分の火傷を負った方の髪を、持ち上げて見せるのだ。
どうぞ、心行くまでこの跡を、見て行って下さいと言わんばかり。
クージェだけが、その光景から目をそらした。
「いいや……美しい女だ。悪い秘密を持つ女は、とても美しくなるからな」
「領主様との関係のことを、おっしゃっているのかしら? それでしたら、秘密のうちには入りませんわ」
「さあ……どうだろうな」
桃の胃をちくちくするような攻防戦が、目の間で繰り広げられている。
普通に話している時とは、何もかもが違う。
毒の使い方も殴り方も分かった上で、激しい応酬をしているのだ。
「いま……この町の若者が数人、異国へ行っているそうだが…知っているか?」
次に、夕日が振った話は、思いがけない方向へ飛んで行った。
彼女が心配しているものとは、真反対の話だったからだ。
「ええ、存じておりましてよ。あの子たちは、より遠くへ行く造船技術を学ぶために、群島国家へ勉強に行きましたの」
桃は、入ってきた人間ばかりを気にしていた。
しかし、逆もまたありえるのだ。
「遠くへ行く船か……ロジアとやらは、どこまで行きたいのだ?」
言葉に、ふっと彼女は小さなため息をついた。
「世界の果てがあるのならば……行ってみたいですわね」
祖国に帰りたいとは言えないにしても、他の国に行ってみたいという言葉でもなかった。
世界の果て。
誰もいない、何もない場所なのだろうか。
そんなところへ行って──彼女は、どうしたいというのか。
※
「飛脚が来たぞ」
胃の痛い対面が何とか無事終わり、部屋に戻ると、伯母が紙を持ち上げて見せた。
居場所を、母に飛脚で連絡していたので、これまでも何度かやりとりはしていたのだ。
封を切ると、中から手紙が2通出てきた。
1通は、読めない文字で書いてある。
日本語だ。
伯母宛てだろう。
次郎を抱えている伯母に、それを渡す。
「ああ、これは私宛てではあるが、半分はお前宛てだ」
読みながら、伯母は不思議なことを言った。
桃宛てだというのならば、もう1通の方に書けばいいのに。
そう考えて、あっと気づいた。
この国の人間が、誰も読めない文字。
それは、秘密の情報のやり取りに、この上ない威力を発揮するではないか。
ロジアの屋敷は、あくまでも仮の住まい。
いつ移動するかもしれない。
しかも、ここは他国の勢力のド真ん中かもしれないのだ。
そんなところに、分かりやすいこの国の文字で、秘密の情報を送るわけにはいかないではないか。
「テルとハレが無事帰りついて、都に祭りが始まるようだな。それから……祭りを待たずに、リリューとエンチェルクとヤイクルーリルヒが、こちらの町へ向け、旅立ったそうだ」
いよいよ。
ロジアの話は、悠長に構えていられなくなった。
夕日には話をしなかったが、テルの名代であるヤイクには、彼女はありのまま話さなければならないだろう。
こちら側への取り込みを。
桃は、そう進言するつもりだった。
彼女には、その可能性があると、そう彼女は信じたかったのだ。
そんな時。
ノッカーが鳴った。
「少し、話が出来るだろうか?」
クージェだった。
※
桃は、クージェを部屋の中に招き入れた。
二人きりならともかく、伯母と次郎もいたので、問題はないと思ったのだ。
短い髪を、彼はとても恥じているように見える。
桃のところに訪ねて来ながらも、まともに彼女を見ようとしないのだ。
ソファを勧めたが、すぐに帰りたげに扉の側に立つ。
「私を、領地に戻すよう…夕日様に進言してもらえないか?」
彼は、情けない声でそう訴える。
夕日とリクとの旅路は、クージェにとっては苦痛に満ちたもののようで。
イエンタラスー夫人宅の、あのぬくぬくとした生活が恋しくてしょうがないのだろう。
かなり長いこと、彼らと同行している割には、あまり変わっていないように思えた。
「ただ、約束する。領地に戻ったら、もう決して無体なことはしない。真面目に良い領主になるよう努力する」
答えられずにいると、彼は強い語調で痛切な訴えに変えた。
ここが、最後の分岐点であるかのように。
正直。
桃は、まだ彼は帰らない方がいいと思った。
学ぶべきものを身につけていない。
そう、見えたのだ。
なのに。
「そうか……それでは、私を負かせたら帰ってもいいぞ?」
伯母が。
さっくりと、二人の間に割り込んだのだ。
「伯母さま!?」
驚いた。
伯母の負けを考えたわけではない。
クージェでは、負かすどころか対等の勝負も出来ないだろう。
だが、いま伯母の腕には次郎がいる。
次郎を守りながらでも戦える人ではあるが、こんなくだらない話で、我が子を危険にさらすのかと思ってしまったのだ。
クージェの表情は、一瞬明るくなった後──暗く沈んだ。
「出来ません……」
何の努力もせず、彼は伯母の提案から足をひいた。
次郎を抱き直しながら、伯母の唇が意地悪げに微笑む。
そして。
「ああ……それならもう、どこへでも帰っていいぞ。夕日殿には、私から言っておこう」
あっさりと。
伯母が許可を出したのだった。
※
「いろいろな人間がいるものだろう?」
寝ついた次郎をベッドに戻し、伯母は大きくひとつ伸びをした。
クージェが、驚きながらも喜び、さっそく帰り支度をすべく去って行った後のこと。
「強い人間と旅に出たからといって、みなが強くなるわけじゃない」
少なくとも。
「あの男は、『こんな生活をするより、家で真面目に頑張った方がマシ』という結論にたどりついたわけだ」
はぁ。
伯母は、高みを目指す人だ。
だが同時に、周囲の人間の目標には頓着しない人でもある。
ここまででいい。
そう考え、満足する人間を無理に引っ張り上げようとはしなかった。
クージェは、もはや満足したということか。
「到着点は、その人間が決める。どこに線を引くも自由……変えるのも自由。いつだって決めるのは、本人だからな」
「到着点……」
桃は、視線を落としてしまった。
その線を、まだ自分は引けていない。
伯母のような、剣士の高みを目指しているわけではない。
母のような、まつりごとに携わる方向に進むのだろうか。
父に会うという短期の目標は、既に到達してしまったが──その先が、まだ何もなかったのだ。
「だが、あの男は…ちゃんと躾られているから、そう心配することはないだろう」
伯母は、眠る次郎を見た。
「子供を抱いた女に手を上げる気だけは、たとえ帰れなくなろうとも起きなかったようだからな」
それを聞いて、少しは桃も安心した。
低いハードルではあるけれども、クージェは多少はまともになったのだ。
「伯母さまがいてくださって、助かりました」
心の線引きの出来ないままの桃は、複雑な気持ちを抱えながらも、伯母に礼を言った。
「私が邪魔なようなら、すぐに出て行くつもりだったがな…そうではなかったようだ」
伯母は。
悪い笑みを浮かべた。
ええと。
「それは……ないです」
困りながら答えたら──伯母は愉快そうに笑ったのだった。




