愛
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いるはずの男が、いなかった。
オリフレアの悲劇の原因は、そこだった。
もしあの男がいれば、ここまで彼女に危険が迫ることはなかっただろう。
彼女が、誰もいなくなった屋敷を心配して、ハレに頼んだのだ。
「近いうちに肌の黒い男が帰ってくるから、こっちにいるって伝えて欲しいの」、と。
殺された者の弔いや、後片付けを領主が引き受けてくれた。
これ以上のトラブルを起こさないためには、最善の策だろう。
だから、ハレはオリフレアの伝言を領主に託したのだ。
肌の黒い男。
彼の感覚が正しければ、オリフレアの父である男。
彼が旅から戻って、この屋敷を見た時。
どう思うのだろうか。
それは──遠からず分かることとなった。
スコールの来た日。
ひどい雨がやみ、静寂に包まれた真夜中。
硝子が、叩き割られる音がした。
皆が、飛び起きた。
音のした二階で、唯一誰も出てこなかったのが、オリフレアの部屋だった。
みなが彼女の部屋に駆けつけ、その扉を開くと。
ずぶ濡れの、マントのままの男が。
茫然としたベッドの上のオリフレアを──抱きしめていた。
飛び出そうとするテルを、ハレは制した。
光で、分かった。
「彼女の……父親だ」
ちいさくちいさく。
隣にいるテルにしか聞こえないほど顔を寄せて、ハレは囁く。
言わなければ、弟が自分を止めることが出来ないだろうと思ったのだ。
「何をしているの……離しなさい」
オリフレアの命令に、男はすんなりと手を離した。
燭台の光に照らされる、傷だらけの顔は、すぐに濡れたマントのフードの中へと消える。
それきり。
二度と、オリフレアに触れることはなかった。
彼の愛した女は、既にこの世にはいない。
愛した女の産んだ娘が、危険な目にあったと聞いて。
この男でさえも、冷静ではいられなかったのだと、痛いほど伝わってきた真夜中の出来事だった。
※
オリフレアと違って、長く痛みに苦しんだ女がいた。
彼女の側仕えだ。
名は──シャンデルデルバータ。
賢者の遠縁で、ハレの父と旅をした人の一人だと、ヤイクが教えてくれた。
それ以後、オリフレアの母に雇われ、彼女が産まれてからは、ずっと世話をしてきたという。
一度の人生の中で、二度も成人の旅につき従った人間は、世界中探しても、おそらく彼女だけだろう。
シャンデルは外傷がひどく、特に両手や両腕がずたずただった。
日本刀ほどの切れ味はなくとも、剣なのだ。
そんなものに、素手でしがみついて無事なはずはない。
だが、彼女のその命を賭けた頑張りがあったからこそ、リリューが間に合ったのだ。
テルは、その忠義を汲んで、一生心配のない暮らしをさせると言っていた。
そのためには、彼女が生き延びなければならない。
わずかにしか、痛みを和らげない部分麻酔で両腕を縫い合わせられ、長い間高熱と痛みで苦しむ彼女を、ハレとコーは毎日見舞った。
彼女が歌うと、少しは痛みがやわらいで眠れるようだ。
キュズの葉を噛めば、もう少し楽にしてやれるのは分かっている。
しかし、ハレはそれには同意出来なかった。
常習性のない薬草で作る弱い鎮痛薬と、金の光とコーの歌。
その三つで、シャンデルは激痛の日々を乗り越えてくれたのだ。
熱が下がり、まだよどんだ瞳が、ようやく意識を持ってこちらに向けられる。
そして、彼女は弱弱しい声で言った。
「おひぃさまは……おひぃさまは…ご無事ですか?」
「ああ、彼女もおなかの子も、何もかもすべて無事だよ」
言葉に、全てを詰め込んだ。
もう一度、シャンデルが問わずに済むように。
彼女は。
弱弱しく微笑んで。
傷を負ってから初めて──安らかに眠りに落ちていった。
※
時は、来てしまう。
都に向けて、旅立たねばならない日。
ハレは、弟に言った。
「7日だけ……出発を遅らそう」
テルは、それを──拒まなかった。
7日。
テルとハレより、それだけ遅く生まれた女性のために。
まだ、旅は終わっていないのだ。
オリフレアもまた、都へ入らなければならない。
それぞれ、別々に。
だから、兄弟で決めた。
最初にハレがゆく。
少し遅れて、オリフレアが旅立ち。
しんがりをテルが行く。
たった一日ほどの距離を、彼らは女を守って進むのだ。
そうと決まれば、もはや心配などない。
オリフレアには、あの男がつく。
テルにはビッテと、この日のためにエンチェルクが駆けつけていた。
そしてハレには、リリューと──コーも来てくれたのだ。
誰ももう、このイデアメリトス達には、触れることさえ出来るまい。
「夜に旅立った私が、最初に都に入るのか」
複雑な気持ちだった。
「行きましょう」
ホックスが、すっかり軽くなった身で言う。
彼が、旅に持ち出した荷物は、ほとんどをここに置いていくのだ。
都に入ってさえしまえば、後からいつでも取りに来ることが出来る。
勿論、本当の意味で身軽になったのは──リリューなのだが。
「モモがいないのが、残念だな」
港町で仕事をしているだろう彼女を思って、ハレはコーを見た。
「大丈夫っ。桃なら、きっと大丈夫だよ」
彼女は、弾けるように微笑んだ。
ウメに課せられた鎖は、すでに引きちぎられた。
彼女は、この国の言葉の全てを手に入れたのだろうか。
そんな彼女と。
明るい朝日の中。
ハレはついに──最後の領主宅を出たのだった。