愛と信用
∞
母が、美しい布にくるまれた長物を持って来た時、桃はどきっとした。
もしや、と。
出立が近付いている。
だが、このままでは桃は丸腰か、木剣で旅立たなければならない。
便宜上は、ハレの身の回りの世話をする女性になるので、武装する必要はないのだが、剣術道場の人間が、それで満足できるはずがなかった。
「桃」
何のタメもない呼び方は、彼女の背をまっすぐに引き延ばさせる。
ただでさえ母の背を越えたというのに、更に見下ろすような状態になってしまった。
「お前に、刀を預かって来ました」
解かれる紐。
すべり落ちる布。
真新しい日本刀が、母の手の中にあった。
反射的に喜びかけた桃だったが、厳しい視線に、はっと顔を引き締める。
「菊によると……本当ならば帯刀は許せない、ということです」
耳の痛い言葉。
そんなことは、分かっている。
桃には、強い心がない。
勿論、技術も足りない。
菊やリリューを見ていれば、自分に足りないものが何であるかくらい、嫌というほど知っている。
桃は、父以外のすべてに愛され、可愛がられて育った。
剣術道場に通っていなければ、ただの苦労知らずの甘ったれだっただろう。
そう、心のどこかに甘えがある。
それを乗り越えない限り、伯母は正式に彼女に帯刀を許すことはないだろう。
「心して、持っていきなさい。帰ってきてもなお、刀があなたに相応しくないと見られたら、容赦なく私がもらいうけますよ」
ずしり。
母の言葉と共に、桃はその重みを受け取った。
抜きかけて、やめた。
試しで抜くには、この剣は冷たすぎる。
まだ、何の魂も入っていない気がしたのだ。
「覚えておきなさい、桃……それは、人を斬るものです」
あ。
母の声は、桃の甘えの水たまりに──大きな波紋を落とした。
※
美しい歌声に惹かれて、桃は家の外に出た。
トーが来ているのだ。
夜空に向かって、彼は歌っていた。
きっと、月に向かって歌っているのだ。
この国では、月の話はタブーだ。
桃は、太陽も月も愛する国から来た母の話を聞いて育ったので、まったくそんな感情はない。
しかし、成長していくにつれ、町の人たちや門下生との交流で、この国の人たちはそうではないのだと分かっていった。
かぐや姫の話とか、あればいいのに。
母に聞いた昔話を思い出しながら、桃も月を見上げるのだった。
歌がやんだ時。
ふと、視線を空から戻すと、トーが近付いて来る。
「沈んでいるのか?」
静かに問いかけてくる。
「かあさまが、私に刀をくれたの」
菊という、伯母を見て育ったのだ。
そんな彼女に剣術を習って、日本刀にあこがれるな、という方が無理な環境だった。
「でも……思ってたのとは、ちょっと違ったみたい」
剣は、飾りではない。
人が襲ってきたら、桃もこれを抜いて戦うし、勝つためには相手を傷つけなければならないのだ。
それは、相手を殺すことにもつながるだろう。
人を。
殺したことなど、なかった。
剣術を習いながらも、考えたこともなかった。
初めて、この刀というものを、桃は恐れたのだ。
「キクは……」
トーは、淡々とその名前を紡いだ。
伯母の名に、桃は視線を引っ張られる。
「キクは……戦い方ではなく、戦うための心を教えているはずだ」
疑いのない、声。
トーが、伯母をどれほど信用しているのか、その一言で痛いほど分かった。
桃は、彼にも周囲にも愛された。
だが。
これほどの信用に足る人間だと、思われたことはなかった。