危惧
#
リリューを呼び止めたのは──テルだった。
こんな、使用人の部屋の並ぶ一階の端を、たまたまテルが通りかかった。
残念ながら、そんな能天気な解釈は出来ない。
わざわざ、リリューに用事があったというのか。
テルの傍らには、ビッテがいる。
武の道を、究めようとすればするほど、人と言うものは静かになるのだろうか。
父も母も、そしてこのビッテも、静かでどっしりとしている。
「都に帰ったら……暇か?」
奇妙な聞き方だ。
暇な時間など、ない。
生きることに、日々意味を持っていれば、暇な時間というものは存在しないのだ。
そんな教えを、骨の髄から叩きこまれているリリューにしてみれば、その問いには「いいえ」と答えるしかなかった。
「ああ、聞き方がまずかったな…都に帰った後、東の港町に行く気はあるか?」
いいえの答えを、テルは的確に射ぬく。
彼もまた、母の道場の門下生なのだ。
そして、リリューの目の前に、生まれ故郷の町をぶら下げる。
「俺の立場で、動かせる人手が足りない……都についたら、ヤイクルーリルヒの護衛として、一緒に行ってくれないか?」
彼の思考の何倍も早く、テルの唇が動く。
ふっと、リリューは微笑んでしまった。
テルは彼を手駒として、使おうとしている。
だが、同時に自由な人間であることも理解している。
だから、ハレを介さなかった。
だから、自分自身こんなところまで足を運んだのだ。
『お前を手駒として使いたい。だが、拒否権はある』
短くすると、こういうところだろう。
港町には、行くつもりだった。
母と、新しい家族に会うために。
そして、自分自身のためにも。
「ついでなら、いいですよ」
だから、リリューは正直に言った。
「申し分ない、助かる」
その言い様が、テルは気に入ったようで──軽やかに笑いながら、歩き去って行ったのだった。
※
同じ日、リリューは今度は、ハレに呼び出された。
エンチェルクが来ていると聞いたが、そのおかげか、何かと慌ただしい日のようだ。
彼の部屋に行くと、そこには既にホックスと──コーがいた。
エンチェルクと、一緒に来たのだろうか。
久しぶりに見る彼女に、何となく懐かしさを覚えた。
会わない期間など、たった二月ほどだったはずだが、不思議なものだ。
「オリフレアリックシズの屋敷に、先ぶれを送ったところでね。護衛を頼むよ」
ハレは、いつも通りの穏やかさではあったが、声にわずかな艶を含ませていた。
コーの訪問を、喜んでいるのだろう。
都に戻るまで、ハレは好きなことが出来る。
ただし、その自由は危険と背中合わせでもあった。
彼はまだ、旅を成功させたわけではないのだ。
誕生日の来るあとひと月ほどは、不安定な身の上。
そんな中、イデアメリトスの親族の元を訪問する気らしい。
温室とやらでも、見に行くのだろう。
領主が、気を効かせて荷馬車を用意してくれていた。
これで、安全性は遥かに高まる。
彼も、旅の間で学んだのだ。
月の人間は、一般人や領主を襲わないと。
領主の荷馬車もまた、領主関連と言っていいだろう。
月の人間が憎んでいるのは、あくまでイデアメリトス、というわけだ。
ある意味、手段を選んだ潔さがあると、リリューは思う。
だが。
ふと。
彼の意識にひっかかることがあった。
宮殿に住まないイデアメリトスは、狙いやすいのではないか、と。
だが、すぐに否定する。
彼ら個々が、高い魔法の能力を持っているのだ。
成人の旅の往路ならまだしも、既に魔法の制限が解かれたいま、血を薄めてしまった月たちが、迂闊に手出しなど出来まいと。
荷馬車の行く先で、ドカンと何かが大きく爆発するような音が聞こえるまで──リリューは一瞬の危惧など、忘れてしまっていたのだった。