したたか
∴
「ハレイルーシュリクス!」
ハレは、一瞬それが幻聴ではないかと思った。
何故ならその声は、窓の外から聞こえてきたからだ。
驚いて、バルコニーの方を見ていると。
にゅっと。
手すりから手が出てきた。
右手、左手。
そして──白い、頭。
次の瞬間。
ひらっと、しなやかな女性の身が、バルコニーに降り立ったのだ。
「コー!」
大きな声を出してしまった自分に、ハレはすぐには気付けなかった。
彼女が来たことも驚いたが、まさかそんなところから現れるとは思わなかったのだ。
「エンチェルクイーヌルトに、連れて来てもらいました。いろいろと挨拶をしなければならないと言われましたので、先に会いに来ました」
美しい、みやこ言葉。
だが、何も変わっていない爛漫な笑顔。
トーに習ったのだろうか──高いところへ登ってくる技術。
彼もまた、よく宮殿の屋根の上にいたではないか。
ああ、ああ。
ハレは、あふれ出る愛しさを、どうしても止められなかった。
いつもなら、先に抱きつこうとするのはコーの方だ。
だが。
今日は。
「ハレイルーシュリクス?」
少し驚いている。
彼女の身体を。
抱きしめてしまった。
※
「あとひと月、ちゃんと言葉の勉強が出来たら……梅が自由にしゃべっていいと言いました」
本に書いてあるような言葉でしゃべるコーは、嬉しそうにそう報告をする。
厳しい厳しいウメの指導には、すっかり慣れたようだ。
「私も、少し分かるようになりました。仲良しの相手には、近い言葉を使ってもいいということを。だから、早くハレイルーシュリクスや桃に、近い言葉を使いたいです」
離れてから、それほどの時間はたっていないというのに、言葉に対しては本当に彼女は天賦の才があるようだ。
美しい音の流れ。
言葉さえ、まるで歌のようだ。
「トーは、全部の歌を教えてくれました。おかげで、全部真っ白になりました」
その音で、彼女は自分の同胞について語る。
持ち上げた左の髪は、コーの言う通り、もはや黒い部分などない。
「トーは……いい人だったかい?」
これは。
ハレの中の、いやな男が聞いてしまった言葉。
コーを奪うことが出来るのは──彼しかいないと、心の底で恐れているせい。
どれほど近しく、トーといるのだろうか。
心の中で、もやもやと渦巻く黒い色を、ハレは持て余していたのだ。
「あ…」
カァっと、コーの頬が染まった。
彼女の言葉が、かすかに詰まる。
「あと……えっと……」
慣れない音が、コーの唇から生まれる。
ハレは。
バルコニーの手すりの上に、立っている気分だった。
外に転げ落ちれば、きっとただでは済まない場所。
それは、彼女の言葉次第で、簡単に突き落とされる場所でもあった。
「あの……トーは……」
声が、小さくなる。
「トーは、私に言いました」
幸せそうな、本当に心から愛に満ち溢れた恥ずかしそうな微笑み。
「『お父さん』って呼んでもいいと……」
私に、お父さんが出来ました。
嬉しくてしょうがないコーの言葉に。
ハレは──バルコニーの内側へと転げ落ち、したたかに頭をうちつけたのだった。