事実の向こう側
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「あの時……私とロジア様は、同じところで寝ていたのよ」
女性は、話をしてくれた。
静かに、ゆっくりと、しかし──自分の心を少しずつすりつぶすように。
「ロジア様は、私より少し小さな子供だったわ。火傷もひどかったけど、余りのことに彼女は、何もしゃべれなくなっていたの」
かける言葉にもうまく反応できず、記憶もあやふやで、とてもかわいそうだったと、彼女は言う。
「そういう子が、他にもいたわ。大人にも、何人かいたみたい」
そして、領主が国の後押しを受け、救済に動き出した。
「大人は、町の復旧で忙しかったから、動けない私が、その子たちに寺子屋まがいで言葉を思い出させようとしたのよ」
たどたどしく、ロジアが『おねえちゃん、ありがとう』と言った時は、片足を失いながらも生きた甲斐があったと、女性は言う。
桃は、黙って話を聞き続けていた。
ひととおりの彼女の話が終わった後。
「その時に、教えた子たちの……名前は覚えていますか?」
静かに、問いかける。
「ええ、忘れてなんかいないわ。ロジア、イーザス、ラベオリ、トッセンメイヤルーエン、エルメアオルニアンテリウ、ユッカス、ヘリア、アインロデリアーチス、カラディ…子供ばかり9人よ」
懐かしみながら、名を連ねる。
その中に──カラディが入っていた。
ああ。
嗚呼。
そうか。
『それ』が、違和感だったのだ。
桃は、噛み締めた。
彼女は、よろけそうになる足に力を込め、女性に礼を述べ、家を出た。
酒場から、楽しげで騒がしい声が聞こえてくるが、もう一度入る気にはなれなかった。
明日が満月だよと輝く、丸に近い月に照らされながら。
桃は、頭を打ち振りながら、ロジアの屋敷へと帰っていったのだった。
※
「ひどい顔をしているぞ……」
伯母は、桃の顔を一目見るなり、嫌な表情を浮かべた。
そうだろう。
ひどい顔をしていることくらい、自分でも分かっている。
「伯母さま」
そして。
伯母ならば、分かっているのではないかとも思った。
「伯母さまは……知っていたのですか?」
猛烈な疲れに耐え切れず、桃はベッドの端へと座り込んだ。
過酷な旅路であったとしても、これほどまでに桃を疲れさせることは難しいだろう。
「ロジアさんが……異国の人間かもしれないってことを」
一瞬だけ。
時が、止まった。
その時は、伯母が目を細めることで動き出す。
「どこの国の人間かということは、考えたことはない……何か、訓練を受けた人間だろうということは分かっていたが」
声に、嫌悪はない。
あるはずがない。
もしも、嫌悪があったのならば、伯母がこれほどまで長く、ここに厄介になっているはずがないのだ。
個人的な好悪は別として、彼女の言葉は、桃の推測を裏付けたことだけは間違いなかった。
「ロジア、イーザス、ラベオリ、ユッカス、ヘリア、カラディ」
桃は、指を折りながら、あの女性に教えてもらった名前を挙げた。
全員ではない。
その中の、6人。
彼女が、疑ったのがその6人だ。
疑う理由など、たった一つ。
名前の長さ。
カラディもロジアも、最初から自分の名を短く呼ぶように言ったではないか。
『そこまで』が、本当の彼らの名前なのだ。
言葉がしゃべれなかった?
記憶もあやふや?
では何故、自分の名前を名乗れたのか?
この国の人間が、便宜上名づけるのならば、決してこんな短い名前などつけるはずがないのだから。
何故、言葉がしゃべれなかったのか?
それは──この国の言葉を、まったく知らなかったからだ。
※
言葉がしゃべれなくとも、ごまかせそうな子供たちを──かの国は送り込んでいたのである。
大人の中にも、しゃべれない者が何人かいたという部分も怪しい。
あの襲撃の悲劇を、全て隠れ蓑にしきって、20年という月日を、彼らは乗りきったのである。
皮肉なことに、あの事件の被害者である女性が、彼らにこの国の言葉を教えたというのだ。
そして。
ロジアは、領主の愛人となった。
飛脚問屋の女主人でもある。
金と権力と情報。
この町で、彼女は握りきった。
更に、港町にいれば、何らかの形で異国の人間と情報のやり取りも可能である。
これほど、異国の勢力にとって好都合なことはない。
それから──カラディ。
彼は、植物と動物の調査をしていると言った。
調査という名の元に、国中を回るのが仕事だろうか。
勿論、この国の植物・動物のことも、有用な情報にはなるだろう。
だがしかし、政治体制や国や町や村の様子、兵の配置なども、頭に入れているに違いない。
他の4人の子供たちも、生きているのならば、この国で何かの仕事をしているだろう。
そして。
その中の誰かが。
イデアメリトスの反逆者の、背中を押した可能性もある。
金なら、ここにあるではないか。
今更。
今更、この屋敷の主人が敵なのだと、思わなければならないのだ。
浮かれていて、火傷を負ったというロジア。
この町が、悲劇の真っ只中にあった時、彼女は虫として放り出され──その事実を、喜んだのだろうか。
「こら」
こちんと、桃の頭は次郎の手で叩かれた。
伯母だ。
赤ん坊の小さな手を、勝手に彼女が使ったのだ。
「他の連中は知らんが、ロジアなら何とかなるだろう。あいつが、この町を好きなことは間違いないからな」
真芯の美学を貫いた女性が、桃の目の前にいる。
どこの国の生まれかなど、伯母には産毛を揺らす風にさえなりはしない。
事実の向こう側に、彼女──山本菊は、堂々と立っているのだ。