覚悟
∞
桃の、重くなった心は。
夜の酒場で、吹き飛んだ。
う、うるさい。
既に、仕事を終えて出来上がった男たちが、声を張り上げ、硝子や木製のジョッキを振り回していたのだ。
旅の間、酒場の二階の宿を借りることはあったが、ここまですさまじくはなかった。
ただ。
リリューと同じ肌の色をした人たちが多く、それは桃の心を緩めたのだ。
割と新しい時代に、港町に移り住んだ人は、こういう肌の色にならないという。
親から子へ、海で灼かれた肌の色は受け継がれるというのだ。
だから、リリューの肌の色は、先祖代々この町に住んでいたという証だった。
「こんな店で、待ち合わせかい?」
店の亭主が、カウンターの隅に座った彼女に声をかける。
自分の店なのに、こんな店呼ばわりだ。
さて。
桃は、切り出す言葉を既に考えていた。
「リリュールーセンタスって名前に、聞き覚えはないですか? 3~4歳くらいまで、この町にいたらしいんですけど」
桃は──従兄をダシにしたのだ。
従兄のことを、調べているわけではない。
「さぁー……どうだろうなあ。いまいくつなんだい?」
だが、彼の話をすることによって。
「20年くらい前のあの事件で……この町を出たらしいんですけど」
少し、声をひそめる。
そう。
従兄の名を出すことによって、自然にそちらへ話を持っていけるのだ。
あくまでも、あの事件が目的ではなく、人について聞きたいということを前面に押し出して。
亭主の表情が、かすかに歪んだ。
「あー……それじゃあ、うちの末息子とおない年くらいか」
彼は、奥の厨房へと一度消え──若い男を引っ張ってきた。
「人を探してるそうだ……ちょっと話を聞いてやれ」
ぽいっと。
あせた黒髪の青年は、桃の前へと放り出されたのだ。
「すみません、お仕事中に」
丁寧な桃の言葉に、彼は慣れないように首をひと回しした。
※
「あー…うん、少し覚えてるぜ」
遠い遠い記憶を探る声。
「俺より、ひとつ下だったかなあ……多分そんな名前のチビがいたと思う」
ああ、思い出した。
彼は、そう呟きながら嫌な顔をした。
「一緒に、船を見に行った……あんなデカイ船を見たのは、初めてだったから」
楽しんでいた昔の自分を──憎む声。
「そうか……あの事件の後、あいつはいなくなってたのか」
それどころじゃなかったからな。
今まで、思い出されることもなかった小さな友人と、彼は心の中で対面しているようだった。
その姿が、余りに侘しく見えて。
「生きてますよ。すごく、大きくなっています」
桃は、言わずにはいられなかった。
そうしたら。
男は、何だかすごくほっとした目を、彼女に向けた。
「ああ……そうか、デカくなったか」
忘れていたのだから、さしたる思い入れはなかったはず。
それでもなお、あの悲劇の後で無事に生き延びて、大人になったと知ることは、心の救いになるように思えたのだ。
「そうか……って、あれ?」
その瞳が、安堵から怪訝へと飛び移る。
「大人になったそいつを知ってるなら……あんた、俺に何を聞きにきたんだ?」
あいたたたたた。
ついつい、ダシに使ったことを、忘れてしまって痛いところを突かれる。
ど、どうしよう。
ああでも。
この人、少しいい人そうだし。
桃は、ぐいっとカウンターの向こうに身を乗り出した。
騒がしい中でも、これくらい距離が近ければ、小さい声でも届くだろう。
「あの事件の……話を聞きたいんです」
リリューが両親を失い、ロジアが火傷を負い、多くの人の心や身体に傷を残した襲撃事件。
それは、決して好奇心で聞きたいのではないのだと──精一杯の真面目な顔と声以外に、どうやって相手に伝えることが出来るのだろうか。
※
「だぁれ?」
薄暗い部屋から、声がする。
酒場の裏の家。
「俺だよ、姉ちゃん。客を連れてきた」
そこの一室に、桃は背中を押されて入る。
「一番上の姉ちゃんだ……ゆっくり話が出来んの、姉ちゃんくらいだから」
そして。
青年は、彼女を置いて酒場へと戻っていってしまった。
「あ、あの……桃と言います」
明かりもつけずに、ベッドに腰掛けている女性に、戸惑いながらも名前を告げる。
「まあ、まるでロジア様みたいに、短い名前を名乗るのね」
微笑みは、余り力はない。
しかし、彼女もまた、ロジアを敬愛しているようだ。
「私は、余り機敏に動けないのだけれど、孤児院のお世話をする仕事をしているの」
次第に、目が慣れてくる。
ベッドの側にあるのは、松葉杖だろうか。
足が悪いようだ。
いや。
そうではない。
片方の足が──途中からなかった。
この人に。
20年前の話を聞けと。
あの青年は、言うのだ。
それほどの覚悟があるなら、聞いてみろと。
そう、言われているのだ。
真剣では、足りない真実。
それに、手を突っ込むのは、生半可なことではないのだと、自分に突きつけられている。
息を、大きくひとつ吸う。
テルのことを、思い出す。
彼が、二十年前のことを知ろうとしているのは。
同じ悲劇を、繰り返さないため。
目の前の女性と、同じ人を作らないため。
その芯が、ちゃんと中心を通っていれば。
それはきっと──覚悟になる。