黒い愛
∞
翌日、ロジアは桃を町へと連れ出した。
荷馬車が最初にとまったのは、飛脚問屋の建物。
彼女の所有する店だろうか。
しかし、ロジアはそのまま店の裏へと進んで行く。
慌てて桃が後を追うと。
「ロジア様!」
わっと。
子供たちが駆け寄ってきた。
そこは、店の裏の庭。
大きな布張りの屋根がつけられた下には、たくさんの机が並んでいる。
板書用の板に、どこからか持ち込まれた本。
ここは──寺子屋なのだ。
「ロジア様、おはようございます」
若い青年が、本を片手に近づいてくる。
「ほらほら、勉強をしなさいな……時間はいつだって足りはしないのだから」
小さい子たちを机へと戻しながら、ロジアは青年へと向き直る。
「お給金はいらないので、是非僕を飛脚問屋で勉強させてください」
熱意溢れる、そして彼女への敬愛の溢れる目で、青年は訴える。
その額を、ロジアは閉じた扇子の先で、ペチと打った。
「お金がいらぬ勉強をしたいというのなら、旅にお出なさいな。自分とこの町のために、何が一番より良いか、世界を見て、よく考えていらっしゃい」
青年がすごすごと帰る背中を見送った後、ロジアは桃の方を振り返った。
「私の子供たちですわ……大抵が、商人か役人になる子たちでしょう」
誇らしげではあるが、やはり少し悲しげだ。
この子たちからの贈り物が、居間に飾ってあったカオスなものなのだろう。
ロジアには、血を分けた子はないようで。
その愛情が、この寺子屋に注がれているのだろうか。
「ロジア様」
荷馬車で気づいたのか、次々と男女問わず、青年少年少女老人大人と、寺子屋へと足を運び、彼女に挨拶をしていく。
桃は、彼女を見ていた。
そして、思った。
彼女こそが、まるで──この町の愛される領主のようだった。
※
桃は、一人で港町を歩いていた。
ロジアの荷馬車を下ろしてもらい、散策していくことにしたのだ。
テルに頼まれた仕事を、こなすためにも。
公式の情報であれば、何らかの形で彼に届く。
桃に願われているのは、それでは分からない市井の情報だった。
町の人に、二十年前の話を、いきなりするわけにはいかない。
あの事件は、この町における最大の傷なのだと、伯母が教えてくれた。
安泰だった国に、400年ぶりに外部から大きな傷が入ったのだ。
町の人に少しずつ遠まわしに話を聞き、そして夜の酒場に行こうと、今日の予定を決める。
酔っ払いの口は、軽くすべるのだと。
これもまた、伯母が教えてくれた。
ただ、港町の酔っ払いは、内陸よりは少々荒っぽいとも。
多少の危険があると知っていながらも言うのは、自分で何とか出来るだろうと信頼されているから。
伯母に認められると、やはり嬉しい桃だった。
まずは、昼の町。
旅人として、この町の話を聞く。
海の話、魚の話、時折来る群島の国の人たちの話。
そして──ロジアの話。
「ロジア様は、それは本当に町のために良いことをしてくださるんですよ」
寺子屋のほかに、孤児院を運営し、体術の師範を雇い道場も開いているという。
若者の就職の斡旋もするし、神殿への寄付も欠かさない。
個人的な船を所有し、群島の人たちとささやかながらに貿易の道を築いている。
近々、造船所を作ろうと考えているという。
この町の若者の大半は、どこかしらでロジアの世話になっているようだ。
皆が、目を憧れに輝かせ「ロジア様」「ロジア様」と語る。
そんな中。
「ああ……お可哀想に、ロジア様」
一人の老女が、桃の前でため息をついた。
「あの御方は、どんなに皆に愛されても、満たされない顔をなさいます」
老女の話は──たった8年遡るだけでいい。
※
8年前。
ロジアは、領主の子を──死産していた。
「私の妹が産婆をしておりますが、それはもう、見るに耐えない真っ黒な赤子だったそうでございます」
しかも、その子には、腕が一本なかった。
赤ん坊を見て。
ロジアは狂ったように己をかきむしり、泣き叫んだという。
『私のおなかの中に、この子の腕が残っておる! 誰か! 誰か! 腕を取り出しておくれ!』
「最初から、赤子に腕などなかったと、妹は言いました。ちぎれた跡もないと。けれども、あの御方はいまもまだ、自分のおなかの中に腕があるとお思いになっておられるのです」
それから。
ロジアは、子供たちの施設に力を入れ始めた。
寺子屋は、元々運営していたものを更に充実させ。
孤児院を作り、道場を作り、若者の仕事の斡旋を──ああ。
彼女の悲しみの理由は、そこにあったのか。
死産の反動が、よその子供たちに向いたのだ。
だから、あの応接室だったのだろう。
自分への慰撫か、子供を死なせたことへの罪滅ぼしか。
ロジアは。
自分が救われるために、町の子を育てようとしているのだ。
だが、町の人たちに、これほどまでに愛されているというのに。
彼女は、まだ癒されてはいない。
ロジアがあると思っている、赤子の黒い腕が、彼女を悲しみから放さないのか。
未婚の桃では、とても想像できるものではなかった。
この港町で。
領主の次に有名で。
領主と同じか、それ以上に愛されている女性は。
黒い愛の上に──立ち尽くしたままだった。