ひとつ
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出立の日が、近づいてくる。
リリューは、いつもと変わらない生活をすることに努めた。
そんなある日。
母が、家に帰って来ていた。
父と話をしている。
二人が、そうして話している姿を見るのを、リリューは好きだった。
父の表情も母も表情も、一人の時より少しだけ柔らかくなる。
門下生の中には、リリューに同情する者もいた。
父と母が厳しくて、家の中がさぞや窮屈だろうと。
そんなことは、思ったこともなかった。
父は、おそらくこの家では、一番穏やかな人間だ。
本当に強い人間は、決して吠えない。
『吠えないいい見本が、家にいるだろ?』
昔、母がそんな風に父を揶揄したことがあった。
母は。
彼女は、迷わない。
迷わないのは、自分の道をしっかりと歩いているから。
その道から決して外れず、母は歩き、走り、時に飛んで来た。
あの血だまりの中で吠える自分を救った時も、きっと一瞬も迷わなかっただろう。
素晴らしい背中を二つ。
リリューは、この家で与えられた。
その背中の一つが、彼の方を振り返った。
「リリュー、ちょっと来い」
母は、彼を呼ぶ。
近づく背は、自分の方が大きい。
母を見下ろす度に、奇妙な気分になる。
こうして目の前にしないと、自分の方が小さく感じるせいだ。
そんな彼女が。
信じられないことを、した。
腰から、刀を鞘ごと抜いて、こう言ったのだ。
「持っていけ」
あの。
サダカネを。
※
リリューは、母と父を見た。
父は、穏やかに。
母は、迷いなく。
こちら側にいる自分が、戸惑っていることが、逆におかしく感じられるほどだった。
サダカネ。
母の愛刀。
母が、祖国から持ち込んだ、たったひとつの武器。
こちら側でつくられる日本刀とは、一目で違うと分かる逸品。
鍛冶屋は、日本刀を作ってはいるが、決して満足はしない。
サダカネがある限り、満足出来るはずがなかった。
その刀を、母は事もなげに差し出す。
「かあさん……」
重い。
受け取るには、余りに重い刀。
リリューは、手を出せないでいる。
「私は、定兼と旅をしてきた……お前も、一緒に旅をしてみろ」
それは。
その刃は、母の血と肉と同じもの。
身のひとつ、魂のひとつ。
それを、自分に渡そうとしている。
愛を。
愛を、疑ったことはない。
海辺でみなし子になった自分だが、ただの一度も自分がこの家で厄介者だと思ったことはなかった。
それは、本当はとても難しいことだ。
そして。
本当にとても幸福なこと。
だから、彼はこうして立っていられるのだ。
手を、伸ばす。
両手でしっかりと、その重みを握りしめる。
ずしりと、本当にサダカネは重く感じた。
丸腰になった母は、同じように立ち続けている。
それでも。
とても、母に勝てる気はしなかった。