顔の半分
∞
「おお…」
桃は、およそ女性らしからぬ驚きの声を上げてしまった。
峠の上から見えたその景色を、彼女はまったく知らなかったからだ。
白い建物が数多く立ち並んでいる。
その白さは途中で切れ──広い広い青に変わる。
「これが…海?」
生まれて初めて見る海だ。
海から上がってくる風の匂いさえ、明らかに違っている。
あれが全て水で、そして塩が含まれているという。
この国の、数少ない軍港と言っていいだろう。
それ以外は、外国とのささやかな貿易と、漁業と塩産業か。
頭の中で、ざっと港町の情報をおさらいする。
そして何より。
ここは。
桃の従兄──リリューの生まれた町。
ここで、伯母が子を産んだのは、運命的なのかもしれない。
血は違っていても、兄と同じ地で生まれた子なのだから。
いざ、港町へ。
桃が、これまでの疲れも忘れて、峠道を下っていた時。
随分と綺麗な荷馬車が、後ろから追いついてきた。
馬が、素晴らしく手入れをされているだけではない。
荷馬車の幌、御者の衣装や雰囲気、どれもこれも洒落ているのだ。
逆に言えば、長旅には向いていないように見える。
ということは、この持ち主は、通常の馬車の他に、この御洒落馬車を持っているということか。
お金持ちか貴族か。
すれ違いざま、珍しい装飾を眺めていると。
荷馬車が、止まった。
御者の男が、上空を見上げている。
「尾長鷲のオスのようですね…もしかしたら、この峠にメスがいるのかもしれませんよ」
御者が、幌の中に声をかける。
あわわわわわ、それは違いますー。
目ざとい言葉に──桃は慌ててしまったのだった。
※
尾長鷲のメスは美しくて──
悔しいが。カラディの知識が、ここでは役に立った。
桃は、慌てて御者の男に説明したのだ。
あの鳥は自分の連れで、決してメスがいるからここを飛んでいる訳ではないのだと。
「尾長鷲の…連れ?」
御者が、ぽかんとしている。
その直後。
幌の中から、高らかな女の笑い声があがった。
「この国広しと言えども、尾長鷲と旅をする人間など、初めて見たわ」
をほほほほほ。
御者側から、女性が笑い続けながら顔を出した。
顔と言っても、半分は扇で隠していて、全ては見えなかったが。
つややかで、重たいのではないかと思えるほど豊かな黒髪には、沢山の小さな白玉があしらわれている。
同性の桃でさえ、どきりとさせられる色香は、扇では決して隠し切れていない。
「あなたは、動物の調教師かなにか?」
興味深げに問われて、桃は首を横に振った。
「いいえ、私はただの旅人です。鳥は、友人が私の旅の安全を心配してつけてくれたんです」
出来るだけ正確に答えたつもりが、またもこの御婦人の笑いを誘っただけ。
「港町へ行くのでしたら、うちに滞在しませんこと?」
風変わりなものが好きなのか、いきなり家に誘われる。、
貴族か豪商の奥方だろうか。
「ありがとうございます、でも、人を探しておりますので」
桃が、丁重にお断りしようとした時。
女性が、パチンと扇を閉じた。
妖艶な顔の全てが、明らかになる。
だが。
化粧で隠されてはいるけれども。
顔の半分には──火傷の跡があった。
「それなら、なおさら私といらっしゃいまし。きっとすぐに、人は見つかりましてよ」
港町。
火傷。
そしてこの人は、桃より10歳ほど年上だろう。
ということは。
あの、襲撃事件で出来た傷だろうか。
※
女性は、ロジアルバルハースフィムと名乗った。
名の全てを名乗らなかったのは、貴族ではないからか。
「ロジアでよろしくてよ。長ったらしい名前で呼ばれるのは、気づまりが致しますの」
再び開いた扇で、はふとため息をつく。
桃は、微妙な気分で馬車に同乗していた。
独特の気だるい雰囲気に、いまひとつ慣れないのだ。
一度後部の幌から顔を出し、ソーの様子を確認すると、ちゃんとついてきている。
「桃と申します。伯母を訪ねてこの町に来ました」
名乗った直後。
扇の向こうの目が、鋭くこちらを見た。
「モモ…ああ、そう」
再び、パチンと扇が閉じられ、その先を自分に向けてくる。
「ああ、そうですのね…あなたの伯母の名を、おそらく私は知っていますわよ…キクでしょう?」
自信に満ち溢れた、真っ黒の瞳。
ふふふと漏れ出る、甘い息。
伯母さま、相変わらず目立ってますね。
桃は、心の中でそう伯母に呟いた。
静かな人ではあるが、おとなしい人ではない。
そういう意味では、本当に探す手間は省けた。
「伯母を御存知なのですね…どこにいるのでしょうか?」
とりあえず再会は近そうだと、桃がほっとしかけた時。
「あの尾長鷲を、私に譲って下さるのなら…お答えしますわ」
踊る、扇子の先。
は?
桃は、思わず彼女の目を見た。
人を言葉で嬲る、魔性の色に感じた。
一瞬の間。
「分かりました…」
桃は答えた。
だが、それは。
「分かりました…荷馬車も寝床も結構です。ここで下ろさせていただきます」
ソーを、ロジアに譲り渡すという意味とは真逆のものだった。
身軽に、動き続ける荷馬車の後部から降りようとする桃の腕は。
むんずと掴まれた。
「をほほ…本当にキクと同じ血が流れているわね。まるで…野生動物のよう」
後ろから囁かれる声に、桃は──ぞぶっと悪寒を走らせてしまったのだった。