イデアメリトスの愛
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オリフレアは、甘ったれで愚かな娘だった。
愛が欲しくてたまらず、自分は誰からも愛されていないと思い、愛をくれなかった母を憎んだ。
そして、その母が死んだ後。
いくらでも、母のことを調べることは出来たのに、彼女はそうしなかった。
憎みたかったのだろう。
母という人間こそが、自分の不幸の証なのだから。
テルは、そのオリフレア自身が作った傷を、容赦なくかっ切った。
誰が不幸なのか?
ヤイクに話を聞いた時、彼は片腹痛くてしょうがなかった。
彼女の不幸自慢な態度が、全て滑稽に見えたのだ。
月の首2千を、愛の証に積まれた者など、この世広しと言えども、オリフレアだけだろう。
頭を抱えて、その場にへたり込む彼女を、テルはソファに座ったまま見ていた。
ハレならば、慰めの言葉のひとつもかけるだろう。
他の女たちも。
だが、テルは違う。
オリフレアは、不幸などではない。
それどころか、イデアメリトスとして最上の愛を与えられた幸福な人間だったのだ。
幸せな人間を、慰める?
そんな馬鹿な話はない。
自分の柱となっていたものが、ガラガラと音を立てて崩れて行くオリフレアは、その瓦礫の中に茫然とへたりこんでいる。
空は青く、太陽は輝いているというのに、瓦礫を見つめて動けずにいるのだ。
「オリフレアリックシズ……」
呼びかけるが、反応はない。
「お前は、間違いなくイデアメリトスの人間だ。だから、俺はお前との間に子を成したいと考えている」
答えない。
「俺には、時間が足りないんだ……お前の母と同じように」
空虚な愛の言葉など──囁く暇もなかった。
※
「そうですか……おっしゃったのですか」
ヤイクが、苦笑していた。
「どうせ我が君のことですから、優しく慰めなどなさらなかったんでしょうな」
そして、読んでいた。
まあ、読むまでもないだろう。
これまでの旅路で、お互いのことはよく分かったつもりだ。
勿論、ヤイクは隠していることもたくさんある。
テルは、隠すのも面倒なだけだ。
やりたいようにやり、言いたいように言う。
ただし。
その判断の根底には、必ずイデアメリトスがある。
その道さえ踏み外さなければ、何をやろうが何を言おうが、自分は太陽の血を引く人間なのだ。
「そして……弱ってるところに……つけ込まれましたか」
香油の匂いがしますよ。
「そうだ」
テルは、平然としていた。
イデアメリトスの子を、舐めてはいけない。
羞恥という言葉はあるが、彼らは完全なる私人ではないのだ。
一般の人間より多くの秘密を持つが、逆にまた多くの情報も周知の事実なのである。
暴れる気力もないオリフレアは、おとなしくテルに抱き上げられた。
そこは、ちょうどよく彼女の私室で。
ソファもあったが、ベッドもあった。
弱みにつけこんだ?
イデアメリトス相手に、弱みを見せる方が悪い。
力ない抵抗など、抵抗の内に入らない。
苦しげに、オリフレアは涙を流した。
テルに、抱かれたからではない。
彼への抵抗にかこつけて、自分の母に涙しただけだ。
たとえ、後でどれほど違うと彼女が連呼しようとも。
そう解釈する方が、とても都合がよかっただけ。
彼は、良い人間である必要はなかった。
テルは──イデアメリトスなのだ。
※
テルは、毎夜オリフレアの部屋に通った。
「何しに来たの!?」
毎回毎回飽きもせず、同じ言葉が言えるものだ。
彼女は、少しずつ元のオリフレアに戻りつつある。
だが、その大半はポーズにすぎなかった。
一生懸命虚勢という名の、新しい柱を建てようとするのだ。
テルに、毎回それをブチ壊されるだけだが。
「よぅ……幸せなオリフレアリックシズ」
そう言う度に、彼女の顔が悔しげに歪む。
その歪む顔さえ、幸せの代償なのだ。
テルに、遠慮などあるはずがない。
どれだけ、オリフレアが心の中で混乱の収拾がつけられずにいたとしても、後は自分で納得するしかない。
新しい柱など立てるのはやめて、空を見上げればいいのだと。
その答えに、一人でたどり着くまで。
空は青く、太陽は輝いている。
それだけ知っていれば、イデアメリトスは生きていけるのだから。
そして。
テルは、見た。
彼は、悔し涙を目じりに溜めて眠るオリフレアの、伸びきっていない髪を、ぐしゃぐしゃに撫でた。
「何するのよ!」
驚いて飛び起きる、彼女の頭に手を回し。
「1回だけ、言ってやる」
自分の方へ、頭を引き寄せる。
お互いの額をつっくけるようにして。
テルは。
言った。
「オリフレアリックシズ……愛してるぞ」
そして。
テルは。
彼女のベッドを出た。
オリフレアのおなかが──ぴかぴかしていた。