血
∞
都での生活が、少しずつ動き出す。
桃にとって、母というものは日常の中心に必ず立っている。
厳しいけれども心の安らかな生活が、そこにはあるのだと、旅に出た後だからこそ、余計に強く感じたのだ。
コーは、さっそく苦労しているようだった。
母の厳しい言葉の教育は、桃には覚えのあるもので。
それが始まると、桃はそそくさと道場へと逃げたり、ハレに頼まれた仕事に出かけたりするのだ。
道場の主は、現在不在だ。
また、どこかに出かけたらしい。
そのおかげで、武の賢者宅は一時期、伯父と桃の母という奇妙な二人暮らしになり、変な噂をまいたとかまかなかったとか。
既に不在期間は一年近いと、門下生に聞かされて、桃は苦笑した。
母が、やせたわけだ。
元々食が細いのに、何かにうちこみ始めると食事を忘れるような人で。
その辺は、周囲が気をつけなければならないところがあった。
しかし、エンチェルクはいないし、桃もいない。
伯母もいなければ、残るはあの無骨な伯父だけ。
エンチェルクが帰ってくる前に、とにかく母を少し太らせようと、桃は頑張った。
そんな、コーを交えた女三人の家に、野菜と穀物が届けられる。
「おかえりなさい」
太陽妃自ら。
相変わらずの気さくさに、桃は毎度のことながら面喰らってしまう。
そして。
彼女は、一人ではなかった。
「お邪魔しますわ」
太陽妃の後ろから入ってきたのは──ジリアンだったのだ。
「お久しぶりです」
その姿を、とても嬉しく思った。
ホックスも、はたかれた甲斐があったというわけだ。
おかげで、女五人で楽しい昼食会となった。
家では手狭なので、外の木陰に敷物を敷いて、畑を見ながら楽しく語らう。
コーは、すぐ太陽妃に気に入られた。
ジリアンにも、気に入られたようだ。
おいしい御馳走に陽気になったコーが、最高の歌でお返しをしたのだ。
※
道場を除けば、女だらけの楽しい日々を送っていた桃の元に。
ついに──『あの人』がやってくる。
「トーおじさま!」
夕刻の畑の道を、白い髪を夕日に染めながら歩いてくる男に、桃は駆け寄った。
子供の頃から、本当に年をとったように見えないその姿の意味を、彼女はコーの存在で思い知った。
「おかえり、モモ」
小さい子と同じように、彼女はトーに抱き上げられた。
いつもと変わらないその挨拶も、家の方からコーが見ていることに気づいて、子供っぽい気がして恥ずかしくなる。
「おじさま、ちょっと来て」
何とか下ろしてもらうや、桃は彼の腕を取った。
早く早く。
首を傾げているコーが、こっちを見ている。
次の瞬間。
引っ張る腕が、急に重くなった。
トーが、足を止めたのだ。
振り返ると。
彼は──白い髪の女性を、茫然と見ていた。
驚きの余り、動けなくなってしまったのだ。
こんな姿など、見るのは生まれて初めてだ。
桃は、少し寂しく思いながらも、その手を離した。
トーは、人と関わることを愛した。
伯母と、母と、太陽妃と、桃と、いやもっと、国中の彼の歌を必要としている人たちと。
本当の娘同然に、桃を愛してくれた。
でも、彼は血縁を捨ててきた人だ。
彼の血のことを、本当に理解してくれる人は、それ以来、側に誰もいなかった。
月を捨てた男は。
月を捨てた同胞の女と、初めて出会うのだ。
女の方は、意味が分からずに、不思議そうに見ているだけだが。
「───」
トーは。
鳥のさえずりのように、何かの歌を歌った。
「……!」
ぴょこんと、コーの身体がまっすぐになる。
「───」
さえずりが──かえってきた。
※
月の血を持つこの二人は、本当は鳥の血筋ではないのかと桃は思った。
桃には分からない音で、二人は会話している。
言葉というものは、彼らが表現したいものを、普通の人に伝えるための分かりやすい手段にすぎないのだろうか。
桃は、畑の側によいしょと腰かけて、離れた二人の間で交わされる音を、少し遠い気持ちで聞いていた。
寂しいなあと思うのは、桃のエゴ。
彼女は、この二人のこの会話には、決して入ることが出来ない。
二人がどれほど、自分を特別に思ってくれたとしても、根本まで分かりあえるわけではないのだ。
ただ、今は。
トーの気持ちを、大事にしたかった。
きっと彼は、二度と同胞と穏やかな会話をすることはないと思っていたはずだ。
けれど、そうではなかった。
太陽への恨みも何も吹き込まれなかった、ある意味生まれたての赤子のようなコーは、その経過こそ不幸なものだったが、結果的にトーに奇跡をもたらしたのである。
耳が慣れてくると、さえずりの中に、ほんの一瞬、拾えそうな音を感じる時がある。
もしかしたら。
物凄い早回しで、言葉をしゃべっているのかもしれない。
普通の人間では、とても聞き取れないほどの速度で。
もし、そうだとしたら。
このほんの短い間に、どれほどの話がかわされているのだろう。
さえずりが。
止まった。
コーの声の後に音が切れた。
黙ったのは──トーだ。
桃が、立ちつくす彼を見上げると。
トーは。
泣いていた。
コーが、とことこと近づいてくる。
泣いている姿に、首を傾げた彼女を。
トーは。
強く。
抱きしめた。
※
コーには、二人の先生が出来た。
言葉の先生は、母。
歌と、『空を飛ぶ』先生は、トー。
『空を飛ぶ』という意味は、桃にはよく分からない。
コーが、そう言ったのだ。
夜になると、トーが迎えに来る。
「トー!」
彼女は、喜んで飛び出していく。
気がついた時には、コーの髪は全て真っ白になっていた。
「かやの外って顔をしてるわよ」
そんな二人を見送る横顔を、母に見られてチクリと刺される。
「子供が親離れする時って……こんな気持ちなのかな」
ぼそっと呟いたら、母にこづかれた。
「早く私を、そんな気分にさせてちょうだい」
そして、笑われた。
まだまだ自分は、母からすれば未熟者のようだ。
そんな母の表情が、ふと曇る。
「悩み事?」
母は、大きく感情を動かさない方だし、嘘をつきたくない時は完璧に黙り込み、そして表情を変えずに騙し通せる人だ。
旅に出たおかげだろうか。
前よりも、そういう細かい機微が、桃には分かるようになってきた。
「深刻な話ではないわ。ただ、ちょっと余計な心配をしているだけよ」
そして。
母も、旅に出る前よりは、桃に話をしてくれるようになった。
昔であれば、心配事など彼女に話したりしなかっただろう。
「菊がね……いま、ちょっと動けないらしいの」
ぎょっとする一言だった。
あの、天下無双の伯母が、動けないという理由が、桃には想像が出来なかったのだ。
怪我をしたのか、病気をしたのか、はたまたそのほか環境的な理由なのか。
何にせよ、それは天変地異のような気がしたのだ。
それを、深刻な話でないと言う母もすごいが。
「様子を見に行きたいんだけど、いま動ける人は誰もいないのよね。ダイさんも、口には出さないけど気にしてるみたいだし」
伯父は、私用で勝手に都を出られない。
息子のリリューは、ハレのお付きで隣領。
母は身体が弱く遠出が出来ないし、桃は一応自由ではあるが、ハレのお遣いがある。
確かに。
身内が一人、遠くで困っていたとしても、すぐに動ける人間は、誰もいなかった。