都へ
∞
「先に都に帰って、様子を見て来て欲しいんだよ」
桃は、そうハレに言われた。
復路は、本当にとても穏やかだった。
夜盗には何度かあったが、月の勢力の障害はなかった。
反逆者も、テルの推測通り消えてなくなったのだろうか。
おかげで、都の隣の領地まであっさりと到着してしまう。
ここで誕生日が来るまで、ハレは時間を過ごすのだ。
リリューとホックスもその時まで彼と共にいるが──女性は、この旅ではいてもいなくても同じもの。
先に都に入るのも、自由なのだ。
「はい、分かりました」
モモは、彼の申し出を受けることにした。
一年半ほど留守にしていた都では、さまざまなことが起きただろう。
情報というものを、ハレは渇望しているのだ。
それに。
その仕事にかこつけて。
早く、母に会いたかった。
そんな自分の心を律しながら、桃はひとつ疑問に思ったことがあった。
「コーは……どうしましょう?」
置いていった方がいいのか、連れていった方がいいのか。
その判断は、桃には出来なかった。
何しろ、コーはいままでハレと桃とずっと一緒にいた。
旅の間だったから、それは当然だ。
しかし、ここで二組に分かれることとなる。
どちらに、コーを置いておくのか。
その疑問に。
ハレは、少し寂しげな目をした。
「連れて行ってやるといい。そして、トーがいたら……会わせてやってくれないか?」
あ。
トーと引き合わせることが、最初の目的だったではないか。
それを、思い出したのだ。
きっと、コーは変わる。
いや、変わってもいい。
ただ。
いままでと同じように、桃を好きでいてほしかった。
※
「わぁ」
久しぶりの都は──大きく、まぶしかった。
太陽の光、白い石、騒がしい市場、多くの人、行き交う荷馬車の数。
懐かしい光景なのに、それは桃にはとても新鮮に思えた。
違う世界を、見てきたからだろう。
ここを旅立った時と、自分はいろいろ変わったのだ。
「桃、桃、すごい……いっぱい」
コーは、目まぐるしくあちこちを見るので一生懸命だ。
ぼーっとしていると、市場の人並みにさらわれてしまいそうなので、桃は慌てて彼女を引っ張り出した。
「町巡りは、今度ゆっくりね」
とりあえず。
家に帰ろう。
桃の、今日の目的はそれだった。
彼女にとっての家とは、道場の横にある、こじんまりとした建物のこと。
そこで、女三人で暮らしていた。
桃と母と、エンチェルク。
いまは、誰もいないだろう。
エンチェルクは、テルと一緒に旅に出ている。
母は、伯母の屋敷に住んでいるはず。
それでも、一番最初に帰る家は、あの家だ。
畑と道場のある景色が、桃の心の風景なのだから。
畑の間の道をゆく。
コーと並んで歩く。
建物は、もう遠くに見えている。
特徴的な形の、平屋の道場。
この国の、どこの建物にも似ていない。
腰の刀と、源流は同じもの。
桃は、走り出したい気持ちを、おさえなければならなかった。
本当に、帰ってきたのだ。
全てに、『ただいま』と言ってまわりたい気持ちでいっぱいになる。
道場は閉まっていたが、それは昼間だから。
夕方になれば、門下生がやってくるだろう。
静かな静かな道場の脇を抜けて、桃が家の方に回ると。
驚いた。
「あら……」
雑巾を持った──母がいた。
※
なんで。
桃は、眉間にしわを寄せてしまった。
何故、母が家にいるか──という意味ではない。
なんで、前よりやせてるの?
ただでさえ、やせているというのに、母は旅の前の記憶よりひとまわり小さくなった気がした。
それは、非常に彼女を不安にさせはしたのだが。
桃は、すっと姿勢を正した。
どんな言葉より、先に言うべき言葉が、母との間にはあるのだと、その骨身に叩きこまれていたのだ。
「ただいま……帰りました」
「おかえりなさい、元気そうで何よりね」
二人のやりとりを、コーがきょろきょろと見ている。
母の視線も、彼女へと向けられた。
ぴくっと、コーも背筋を伸ばす。
「コーと申します、どうぞよろしくお願い致します」
桃の教えた挨拶を、彼女はただひたすらに律義に守った。
「桃の母で……梅と申します。どうぞよろしくお願い致します」
たおやかに。
母は、上品に名乗る。
桃がどれだけ真似ようとしても、母のうちからにじみ出るこの雰囲気を自分のものにすることは出来ない。
「梅……」
コーが。
母の名を、唇に乗せた。
その瞬間。
あの母が、一瞬だけ驚いた目をしたのだ。
「梅……あの……」
とことことコーは、母に近づいた。
「あの……触っても、いい?」
ぎゅうっと抱き締めれば壊れてしまいそうな母を、一応気遣ってはいるのだろう。
だが、あの母を前にしてもなお、コーはコーのままだった。
※
母の雑巾を奪い取り、桃は掃除の続きを始めた。
「時々、掃除に来てたのよ」
椅子に座らされ、困った顔を浮かべながらも、母は静かに身の回りの話をする。
長い旅路から、娘が帰ってきたのだ。
娘が、どんな体験をして、どんな思いを持ったのか。
そんな核心の話までの道のりを、母はゆっくりとたどるのだ。
「お掃除!」
コーも、水の入った桶を抱えて手伝ってくれる。
これまで、彼女は掃除を必要としない生活だった。
野宿では勿論、領主宅や宿では掃除をする必要がなかったのだ。
新しい体験を、コーは楽しんでいる。
「桃、こういうの何ていうの?」
綺麗に拭きあげられた部分を、指で撫でながら問いかけられる。
「んー……ぴかぴか、かな」
「ぴかぴか!」
コーの言葉の後から、光が弾けそうだ。
同じ言葉を口にしているというのに、彼女が音にすると、途端に命が生まれる気がする。
「コー」
母が、緩やかに彼女に呼びかけた。
「なあに、梅?」
母のことを名前で呼べる、その心臓が桃には少しうらやましいほどだ。
「あなたが望むなら、私が言葉を教えましょうか?」
まだ。
まだ、何もコーの話はしていない。
彼女と、どうやって知り合ったか。
最初はどうだったかなど、母には話していないのだ。
そういうことを、コーの前でするのは憚られるので。
だが、母は的確に彼女の才能を見抜いていた。
母の名を、一発で日本式に呼べたことは、本当に驚きだったのだろう。
あー。
桃は、口が挟めないまま、コーを見た。
母に学ぶのは、とてもいいことだ。
「言葉を教えてくれるの? コー勉強する!」
すぐに食いついた彼女に、桃は多少の心配と同情を禁じ得なかった。
母の指導は──とても厳しいのだ。
※
「かあさま……」
掃除が終わり、綺麗に手を洗ってから、桃は母の前に立った。
コーがいるから、どうしようかと考えはしたものの。
悪い話ではないし、聞かれてもいいかと思った。
それよりなにより。
少しでも早く、母に伝えたかったのだ。
「どうしたの?」
背の高い自分を、母が見上げる。
「とうさまに、お会いしました」
伝えるには、少し勇気のいる言葉。
「そう」
母は、最初からある程度予想はしていたのだろう。
わずかにも揺れない瞳を、微かに細めるだけだ。
とうさまは、優しい人です。
とうさまは、背が高かったです。
とうさまは、強かったです。
とうさまは。
桃の頭に、たくさんの父への感想が溢れていく。
でも。
そんな言葉の山々をかき分けて、彼女はひとつだけを引っ張り出した。
母の、手を取る。
まっすぐに、母を見る。
「とうさまは……結婚してらっしゃいませんでした」
細く、少し冷たい母の手を、両手で強く握る。
「……」
母は、目をそらさなかった。
何も、言わなかった。
「弟にも会いました。とうさまと本当の親子ではないけれど、慕われているようでした」
駄目を押す。
全て、父が準備した茶番だったのだと。
握った手が、少しだけあたたかくなった。
「馬鹿な人ね……」
母は、微笑んだ。