思いの名前
#
『バカ!』
彼女の言った、最後の言葉がそれ。
大きく伸びあがるように伸ばされた手を、リリューは避けなかった。
バチコーン。
乾いたいい音を響かせた後、目に涙をためて、彼女は駆けて行ってしまったのだ。
何か。
間違っただろうか。
リリューは、考え込んだ。
彼女が、自分の色を嫌う必要などないのだと、事実を持って伝えようとした。
そして、伝えられたと思ったのだが。
彼女の答えは、バカとビンタ。
野猪の子という言葉は、世間一般には、褒め言葉ではないのかもしれない。
だが、リリューはそれを言葉に出してはいない。
だから、はたかれた理由が、よく分からない。
怒っているのは分かったが、本当の意味で怒っているように思えなかったのは──彼女が、遠巻きに見送りに来てくれたこと。
顔も見たくないほど怒っているのならば、決して太陽の下に彼女は出てこなかっただろう。
遠かった。
でも。
光の下に自分から出て来て、彼女はリリューを見送ってくれたのだ。
『さようなら』
母や伯母の使う、この言葉だけが、彼の知る唯一の日本語。
リリューは、都に行かねばならない。
彼女は、ここに残らねばならない。
そうあらねばならぬのならば──お別れです。
リリューの明日は、分からない。
刀を志した時から、生と共に死と向き合ってきた。
最善の時に、最大に使うこの命は、決してしがみついておくものではないのだ。
そんな自分には。
『さようなら』以外に、言葉は持ち合わせていなかった。
嗚呼。
なのに。
そう考えると、微かに心が沈む。
リリューはまだ──彼女の名前さえ知らなかった。