幸せと恋
∴
「桃は、大事な御用で行っちゃったの」
彼女の部屋を訪ねた時、コーはしょんぼりしていた。
ソファの上に、膝を抱えて座っていたのだ。
彼女なりに、我慢をしているポーズなのだろう。
大事な御用。
それは、晩餐の時に薄々気づいていた。
エインよりももっと近い光の男が、同席していたからである。
テイタッドレック卿。
エインの父にして、北の領主。
そして。
モモとは、うまくいったのだろう。
時折交わす二人の視線が、気恥ずかしさを含みながらも、温かい雰囲気を醸し出していたから。
そのおかげか、夫人もご機嫌だった。
息子が連れて行かれて、寂しい時間を送っていただろうが、今日は大人数の本当に楽しい晩餐になったのだから。
コーも、ちゃんと正式に夫人に招待されていた。
「モモは、幸せそうだったろう?」
よしよしと、その頭を撫でると、ぴょこんと彼女は顔を上げた。
「うん! 桃は幸せだよ。幸せって、顔がこうなっちゃうよね」
コーが、自分の顔を両手で横に伸ばす。
目が細くなり、唇がにたっと伸びた。
思いがけない表情に、ぷっとハレは吹き出してしまった。
「コーも、そんな顔をすることがあるかい?」
彼女は、『幸せ』という言葉を覚えた。
言葉の上では、何度も歌の中にも出てくるから、知ってはいたはずだ。
しかし、本当の意味で体験はしていなかっただろう。
「うん!」
即答だった。
一瞬の迷いも、考える隙間もなく、コーは両手を離して笑った。
「ハレと桃と一緒にいると……こうなるよー」
今度は。
両手を使わずに。
コーは──にまーっと顔を緩めたのだった。
※
彼女にとって、自分と桃は特別な存在。
それは、ハレもよく分かっていた。
とても嬉しいことだ。
だが。
同時に、自分がテルに宣言したことが、本当に成しうるかどうかというと、彼にもよく分からない。
コーは、まだ多くの人を知らない。
深く付き合ったことがないという意味で、だ。
都に戻れば、コーはきっと数多くの物を見て、多くの人と出会うだろう。
トーとも、出会うことになる。
そう。
そのトーとの出会いは、きっと彼女の運命を大きく変えるのだ。
それらのすべての出会いと、人との関わりの後。
コーは、それでもなお自分を、特別だと思うだろうか。
ハレには、分からなかった。
「コー……恋という言葉を知っているかい?」
父は。
母に、どう思いを告げたのだろう。
「恋?」
彼女は、首を傾げた。
歌の中に、『愛』はよく現れる。
老若男女問わず、植物も動物も風も大地も太陽も月も。
コーの歌に、愛は溢れている。
だが。
そこに、恋はなかった。
「ただ一人のことを思う時に……胸が苦しくなることだよ」
こんなことをコーに言って、自分はどうしたいのだ。
彼女の心が、よそを向いてしまう前に、自分につなぎとめておきたいのか。
父と母よりも。
この思いには、許されない壁がある。
その壁を越えてなお、彼女は自分を選んでくれるだろうか。
「よく……わかんない」
自分の胸に触れたコーが、頬をかすかに染めながら、首を傾げたのだった。