恋愛音痴
∞
桃は、父と初めて二人きりになった。
夫人が、応接室を彼らのために貸してくれたのだ。
エインも気を使ってか、ここには来なかったようで。
二人きりというのは、とても恥ずかしい。
父親だと分かっていても、これまで親子としての関係を築いてこなかった相手なのだ。
知っているのは、手紙だけ。
ああ、そうか。
桃は、母に宛てられた手紙を思い出した。
「私が生まれた時……」
勿論、父が知ったのは生まれた直後ではない。
桃が生まれ、母の身体が落ち着いてから、そのことを手紙で知ったはずだ。
「私と母の無事を、喜んで下さいましたね」
桃が、母の肖像画に視線を向けると、父も同じように母を見る。
「梅は……とても身体が弱かった。だが、決めたことは絶対にあきらめなかった」
その瞳と声には、恋慕があった。
伯母や伯父の夫婦の間にある、信頼の上の発酵した愛情とは違い、父と母は長く一緒にはいられなかったのだ。
二人は、夫婦というよりも、まだ恋人の線の上にいるように見えた。
聞いている桃の方が、少し気恥ずかしくなる。
「都に行く時もそうだった……お前を産む時もそうだった」
都へ。
父と母が一緒にいられたのは、その都の間だけ。
桃は、その時の子供なのだ。
「は、母は!」
桃は、そんな切ない父を見ているのが、少し辛くなって少し大きな声を出してしまった。
「母は……私の知る限り、誰ともお付き合いしたりしてません! 国や私のために、一生懸命頑張ってました」
いまもまだ。
恋は、続いているのだ。
父が、結婚せずに養子を取ったことを、おそらく母は知らない。
母もまた、桃に新しい父親を用意しようなんてことは、考えていなかったに違いない。
二人の間にあるのは、距離と階級という壁。
桃は、それを取り払いたいと思った。
まだ、その道が残されているのではないかと思ったのだ。
「ああ見えて梅は……」
ふっと、父が微笑んだ。
「梅は……恋愛音痴なのだよ」
少しだけ嬉しそうに──そして、桃のびっくりすることを言ったのだった。