夜の女性
#
晩餐が、始まったようだ。
リリューは、相変わらず晩餐に呼ばれることはない。
それよりも。
彼は裏庭に出て、月の昇る空を見上げた。
ほぼ満月に近い形。
明日が、19日なのだ。
中季地帯の肌寒い夜の空気を、リリューはゆっくりと割って歩く。
何かを、期待しているのだろうか。
自分のことが、よく分からなかった。
ただ。
いるのではないかと。
この夜に、またいるのではないかと──どこかで思ってしまったのだ。
そして、たどりついた。
『そこ』へ。
人の気配はない。
前に来た時、そこに座っていた人はいなかった。
しばらく、その空間を見つめた後。
リリューは、部屋に戻ろうとした。
その時。
奥の方の建物を回って。
誰かが駆けてくる。
少し重たい足音。
月夜に浮かび上がる、ふっくらとした影絵。
「あ、いた!」
彼女にとって、自分の影絵はどう映っているのだろうか。
大きい男というだけならば、他にも何人もいるはずだ。
腰の刀のおかげだろうか。
「よかった……いてくれて」
一生懸命走ってきたのだろう。
声は、ぜいぜいと息切れをして、そしてしばらくしゃべれないようだった。
「ありがとう……坊ちゃんが連れて行かれたから、私はここをやめずにすんだの」
全身から、弾けるような感謝の言葉。
ああ。
夕日とリクに連れ去られた、この家のドラ息子のことを思い出した。
そうか。
彼がいなくなり、そして少しでもマシになって帰ってくれば、彼女の心は穏やかになるのだ。
「よかったな……」
自然と、言葉が出た。
「せっかく苦労して出てきたから……本当はやめたくなかったの」
彼女は、『そこ』に座った。
これまで、いつもそこが定位置であるかのように。
リリューと出会う前も、出会った後も、きっとよくここに座っているのだろう。
夜に外に出るのを嫌がる人が多いため、彼女の邪魔をする人間はいない。
「奥様から、あの御方のお声がけで、坊ちゃんが連れて行かれたって聞いて……きっと、あなたが何か言ってくれたんだろうと感謝してたわ」
それは、買いかぶりだ。
リリューは、何も言わなかった。
皆が、夫人の後継ぎを心配して、自然に動いただけのこと。
彼はと言えば、あの息子に殴られていただけだった。
「何も……言っていない」
いま黙っていることは、彼女の言葉を肯定してしまうことだ。
だから、リリューは白状した。
夕日に頼むという発想も、全てハレが思いついたこと。
「いいえ……いいの。何だっていいの…あなた達が来て、私が少し幸せになった。それだけで十分なの」
幸運の使者のように言われ、リリューはどうにも落ち着かない思いに浸される。
「またいらっしゃったと聞いて、夜にまたここに来れば会えるかな……って」
だが。
その考えは、自分と同じものだった。
名も知らず。
顔も知らず。
ただ、夜に少しだけ話をしただけ。
お互いの、たったひとつの共通点が、この場所だということ。
そんな弱い糸を、二人ともたどって──いま、こうして再会したのだ。
「よかったら、少し都の話を聞かせてくれない? 私、都に行ったことがないから」
それは、何気ない彼女の好奇心だったのだろう。
だが、リリューの思考を固めるには十分だった。
確かに、彼は都で育った。
育ったのだが。
人生のほとんどが、家と道場の往復で、華やかな都の顔とは無縁の生活だったのである。
うまく語って、彼女を喜ばせることなど、出来そうになかった。
※
「私は……都の生まれじゃない」
そう言うことで、うまく都の話を避けられると思った。
彼女の好奇心は都というものに向いているから、その気持ちはしぼんでしまうだろうと。
「え? じゃあ、どこの生まれなの?」
だが、問いは別の方向へと膨らんだ。
ざあっと、耳の中で波音が聞こえた。
「ずっと東の……海辺の町だ」
都の人間と、肌の色が違うのは、そのせい。
『それは、お前の生まれた町の、肌の色だ』
よかったなと、父は言った。
リリューが生まれた町を忘れないように、町もまたリリューを忘れない。
その証拠が、この肌の色なのだと。
都には、全国各地から人が集まるので、さまざまな肌の色の人間がいた。
だから、こんな肌の色の人間がいても、誰も怪訝には思わない。
「どうして、都へ行こうと思ったの?」
彼女は。
もしかしたら、都へ行きたいのだろうか。
華やかな話題が聞こえてくると、都へのあこがれが募って行きたくなるのだろうか。
「母が、私を助けてくれて……だから都へ行くことになった」
本当に、自分は言葉が不得手なのだと思い知る。
これまで、自分の過去を語ることなどなかった。
彼の周囲にいる人たちは、みな知っていて、あえて昔話をする必要はなかったのだ。
「……そう、なの?」
首を傾げた彼女を前に、リリューは困ってしまった。
次に話を振ってもらわなければ、何を言ったらいいのか分からなかった。
「私は……町を飛び出して来たわ。女子学習塾の先生が、ここの奥様に紹介状を書いて下さったから」
あの町を、出たかったの。
言葉の端々に、家族への反発が見えた。
だから、帰りたくない──あるいは、帰りづらい。
ここを辞めるか悩んでいた時、そんなことも一緒に考えていたのだろう。
「でも、学習塾で習ったことは……ここでは余り役に立たないのが残念ね。まあ、贅沢は言えないのだけど」
夜空に吸い込まれる、ため息。
少し、遠い声だった。
※
「明日……19日でしょ?」
立ち上がって、ぱんぱんとお尻をはたきながら、彼女が言った。
ちらりと月を見上げるのは、日付の確認か。
この国の人間にとっては皮肉なことに、月が一番日付をよく知っているのだ。
「そうだな……」
リリューも、月を見た。
「じゃあ、きっともう一晩お泊りになられるわね」
その丁寧な言葉は、おそらくハレに向けられるもの。
ハレは、月に対して何のタブーもないので、出かけることは可能だろう。
しかし、この国の大部分の人たちへの配慮から、おそらく明日は出立しないと思われた。
となると、一泊余計にこの屋敷で過ごすこととなるわけだ。
「じゃあ……また明日、って言っていいのかな?」
ああ。
彼女は、自分の部屋に戻るのだろう。
明日の──夜の約束を、微かに匂わせるのだ。
女性と、こういう約束を交わしたことはなかった。
だから、リリューにしては珍しく、一瞬ためらってしまう。
そう。
心の中に、生まれたのだ。
ためらいが。
「そっか……」
そんな彼の沈黙を、彼女はどう受け取ったのか。
少し、寂しそうにそう呟く。
そして、行ってしまおうとする。
「明日の……」
はっと、リリューは言葉を発していた。
止まる背中。
「明日の……昼は?」
まだ、太陽の日の下で、彼女を見たことがなかった。
振り返る、やわらかそうなその身が言った。
「だめよ……だって、私は綺麗じゃないもの」