挨拶
∞
夫人の後継ぎであるクージェが、夕日とリクに連れ去られたと聞いて、桃はおかしくてしょうがなかった。
それをこらえて、慎ましやかな表情をしているのが、大変だったというべきか。
「面白いことを考える御方だ」
そう、ハレを評するのは──エイン。
彼はまた、夫人宅へと来ていたのだ。
既にクージェがいないと分かって来たのだから、あくまでも目的は──桃自身ということになる。
前回よりも、もう少しだけ打ち解けた気がしていた。
彼は、今度は間にホックスを立てずに、彼女の部屋をノックしたのだから。
『行っておいでよ、桃。コーは、この部屋でおとなしく待ってる』
往路とは、比べ物にならないほど、コーの心は育っていた。
そんな彼女の心に甘えて、桃はエインと裏庭に出たのだ。
いま応接室では、夫人とハレが話をしているらしい。
「でも、夕日様相手では、彼も好き勝手も出来ないでしょう?」
「そうだな……」
少し、歯切れが悪い。
桃は、エインを見つめた。
言葉と心が、食い違っているように見えたからだ。
彼は、そんな桃の視線に苦笑した。
「いや……ちょっとうらやましかっただけだ。旅に出る口実が、向こうからやって来たのだから」
言葉がひとつ増えてゆく度に、エインという人間が、その中から現れてくる。
彼もまた、旅に出たい年頃なのだ。
「お父上に反対されてるんですか?」
桃は、距離を取った言葉を使った。
それが、父を大好きなエインのために思えて。
「まさか。けれど、何のために旅に出るか……まだ見つけられていないからね」
ぴくりと動いた彼の指先が、『父』という二人の間の壁が、まだ完全に取り払われていないことを教えてくれる。
長い時間、わだかまっていることだ。
ゆっくり解けるに越したことはない。
んー。
「都に、武者修行にいらっしゃるとかは…どうですか?」
都には。
父の師匠である、キクがいるではないか。
そこで、直接稽古を受ける。
立派な目的のように思えた。
「都……か」
エインは、考え込む声でそれを呟いた。
そんな彼の元に、使用人が近づいてくる。
そして。
何かをエインに耳打ちした。
表情が変わったのを、桃は見逃さなかった。
「分かった……」
それだけ答えると、彼女の方をまっすぐに見る。
「……場所を変えよう」
エインは、建物に向かって歩き出した。
何だろう。
違和感を隠せないまま、桃はついていくしか出来ない。
向かったのは、応接室。
もう、ハレと夫人の話は終わったのだろうか。
エインが、ノッカーを鳴らすと。
「どうぞ」
夫人の声が、応えた。
桃は、その瞬間ほっとしたのだ。
ようやく、彼女は落ち着いて夫人に会えるのか。
エインによって開けられた扉の向こう。
イエンタラスー夫人は、ソファに腰掛けたまま穏やかにこちらを見ていた。
桃が、目を細めた──次の瞬間。
身体が。
凍りついた。
そんな夫人の後方に。
立っている男が、いたのだ。
中年の男。
その瞳が、迷うことなく自分に向けられている。
あ、あ。
桃は、頭が真っ白になって、何の言葉も浮かべることが出来なかった。
とても背が高く、手足が長い。
しかし、ひょろひょろとした印象がないのは、鍛え上げられた身体が、その上品な衣装の下におさまっているから。
腰にさがるのは──日本、刀。
※
空間にいるのは、四人きり。
イエンタラスー夫人。
エイン。
桃。
そして──彼。
誰も、口火を切らなかった。
いや。
誰も、その間、動かなかったのだ。
夫人は、優しく穏やかに桃を見守ってくれる。
エインは、ただ黙って彼女の側に直立している。
そして、この中で桃が初めて会うその男は。
静かに、しかし、しっかりと自分を見ているのだ。
ひくり、と喉が震えたことに、桃は気づいた。
一言もしゃべっていないというのに、喉がカラカラに乾いている。
心臓が、少しずつ少しずつ鼓動を速めていく。
どれほどの時間だったのか。
桃にしてみれば、それはとてもとても長い時間に感じた。
皆が、自分を待ってくれていることに気がつく。
桃は、表情を引き締めた。
ずっと。
ずっとこの日のことを、頭の中で想定してきたではないか。
真っ白な顔の男が、心の中に住んでいた。
顔も知らないその人に、桃は何度初めましての挨拶を繰り返したことか。
いまが。
いまが、まさにその時なのだ。
「失礼致しました。初めてお目にかかります……山本桃と申します」
深々とした辞儀。
ただ。
表情だけは。
上手な笑顔を浮かべることが出来なかった。