武と無縁の男
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「明日には……出る」
テルが、出立のスケジュールを告げた。
それに、エンチェルクは軽い頷きで答えた。
彼女が、答える必要などない。
テルが決め、ヤイクが異議を唱えなければ、すべては動き始めるのだ。
だが、彼女はあえてそうしたかった。
武の賢者が来たという。
キクの夫だ。
親しく付き合うことはなかったが、いつ見ても彼は賢者の風格というものとは違う気を纏っていた。
そんな男が、太陽の兄の護送に来たということは、もはやテルに何の憂いもないということ。
それだけは、間違いないとエンチェルクにも分かったのだ。
「都へ……」
ビッテの声が、微かな高揚をはらんでいた。
彼もまた、都が懐かしく思えているのだろう。
エンチェルクも、違うとは言えなかった。
もはや、彼女の故郷は都なのだ。
ウメもいる。
エンチェルクは、彼女に話したいことが沢山あった。
おそらく、一晩では到底足りないだろう。
それほど、たくさんのことをウメに語りたかった。
自分をこの旅に出したのは、きっとこんな気持ちを抱かせたかったのだと、痛いほどいま分かる。
知りたい。
見たい。
そして、自分の中で発酵してゆく思いを、誰かに語りたいのだ。
ヤイクへの苦手意識も消えた。
この国への愛も、強く自分の胸を捉えている。
もっと見て、もっと知って、もっと血肉にしたい。
ああ、ああ、ウメ。
彼女の目と、ヤイクの目の向こうにあるのは、この国のより良い未来。
それの一端を、ようやくエンチェルクも、この目に映せるようになったのだ。
ウメは、穏やかに微笑みながら、都で待っていることだろう。
きっと。
すべて、お見通しなのだ。
※
往路とは、到底比べ物にならない、静かで力強い旅となった。
エンチェルクは、それをしっかりと噛みしめる。
テルの腰に、刀がある。
キクから送られた、彼への成人の祝いの品。
だが、彼女は決して祝いだけの気持ちで、刀を送るような人間ではない。
テルが、それを持つにふさわしいと思ったのだ。
ビッテを相手に、テルは毎日のように剣の稽古をする。
大人の身体を手に入れたことを、とても喜んでいるように思えた。
エンチェルクが、相手をすることはない。
もはやテルの剛撃は、受け流すのが精いっぱいなのだ。
実戦ではなく剣の腕を高める稽古という意味では、彼女に出来ることはなかった。
「お強い方で、本当に助かる」
二人の稽古を見ながら、ヤイクは小さく呟く。
最近。
彼のこういう言葉が、もしかしたら自分に向けられているのではないだろうかと感じるようになった。
自分を見るわけではない。
自分を呼ぶわけでもない。
誰とはなしに、独り言のように聞こえるそれは、答えを必要としていないように見えて──答えを拒否しているものには思えなかったのだ。
「強くなろうと、努力された方です」
エンチェルクも、誰とはなしにテルを見つめながら、言葉を発していた。
「……」
ヤイクは、答えない。
だが、不快そうには思えなかった。
ああ、そうか。
彼が家督を継いでから、ただの一度でもウメに、「貴族に口答えするな」と言ったことがあっただろうか。
口論は、することはあった。
意見の噛み合わないところは、ウメとお互い声を荒げないまま、長い時間やり取りすることも。
平民と直接話し、社会の本当の情報を、己の血肉にしてきた男なのだ。
エンチェルクが何を語ったところで、いちいち気にするはずがない。
気にしていたのは、自分だけ。
「剣技とは……美しいものだな」
武と無縁の男から、言葉がこぼれ落ちる。
「ええ……」
それが少しおかしくて。
エンチェルクは、口元に小さく笑みを浮かべてしまった。