女二人
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裕福な商家の老人が、習熟場の先生だった。
既に店は子に譲り、ありあまる時間を、子供たちの教育に向けている。
昼は、学校には行けないくらいの中堅の商家の子が。
夜には、昼間仕事をしてもなお、勉強したいという熱意のある子たちが。
熱心に、白い粉を指につけ、板に字や式を書き学んでいる。
桃とコーの見学も、喜んで受け入れてくれた。
都からの客と聞いて、老人も張り切っているようだ。
昼間会った、あの油売りの少女の姿も見える。
コーは、全てが珍しくてしょうがないようだ。
思えば。
見た目は、桃より年上の大人の女性ではあるが、彼女は耳から入る言葉しか知らないのだ。
旅の間、数字は教えはしたが、さすがに文字まで教える余裕はなくて。
小さい子たちに混じって、文字板を首を傾げながら眺めている。
「私が教えるだけでは、勿体無い子たちも大勢います」
老人は、教え子を思い浮かべているのか、ため息混じりに遠い目で語る。
「捧櫛の町へ行けば、もっと高度な寺子屋もあるのですが、親が働き手として離さない家も多くてですね」
10日に一度ほど。
神殿の町まで、走って通って勉強する子までいるというのだ。
桃はどれほどのことかと、その子のことを思い浮かべた。
母の作った、寺子屋制度は成功はしている。
だが、もっともっと知識を渇望する子たちには、対応しきれていないのだ。
そういえば。
母が、何か言っていた。
きっと、足りなくなってくると。
人の欲は、とても深い。
それが、知識という方向であったとしても。
その道に取り付かれた者には、寺子屋ではきっと足りないだろう。
『もっと勉強したい人はどうするの?』
母は、思慮深く微笑んだ。
『そうね……そこからは、国の仕事になるかしらね』
もっと。
もっと、ちゃんと深く聞いておけばよかった。
国が、どんな仕事をすればいいのか。
きっと。
エンチェルクやヤイクは──知っているのだろう。
※
「気をつけて帰りなさい」
真っ暗な夜。
黒い月は、半月より太った姿で子供たちを照らす。
みな足早に、そして同じ地区の子たちが固まって帰ってゆく。
誰ひとりとして、空を見上げることはない。
月を恐れているのだ。
それでもなお、学びたい心の方が勝っているその背中が、とても愛おしい。
コーが。
見送る桃を見ていた。
「歌ってもいい?」
こういう時の彼女は、歌いたいのだ。
あの小さな背中たちに、歌ってあげたいと思っている。
「勿論」
それを、どうして桃が止めよう。
コーは。
楽しげに──月の歌を歌った。
トーも。
月夜の素晴らしい晩にだけは、この歌を歌っていた。
今日は、さして素晴らしい月夜ではない。
だが。
コーは、子供たちに月は怖いものではないのだと、伝えたかったのかもしれない。
夜空高く、遠く遠くまで流れる絹糸の歌声。
誰もが。
その歌を追うには──空を見上げてしまうのだ。
真夜中のための。
月のための歌。
きっと。
子どもたちは、今夜は夜を恐れずに家へ帰るだろう。
桃たちも、帰らなければならなかった。
恐れがないわけではない。
それは、夜や月にではなく──心配して待っている人たちに対して、だった。