心地よい癇癪
∠
儀式の準備は、滞りなく進んでゆく。
昇る朝日を浴び、それから身を清める。
編んでいた髪を解かれ、美しい艶を刻まれる。
無頓着だったテルは、自分の髪も女のもののように綺麗になるのだと、感心したほどだった。
いくつもの手順を踏み、真昼が近づいてくる。
ずるずるの赤い衣裳は、髪を切った後の成長に耐え得るもの。
大人になった後の着替えや、荷物を重そうに抱えた従者を従え、テルは神殿の最奥へと入る。
思ったより、薄暗いな。
それが、素直な感想だった。
窓は一切なく、ただ天井の真ん中が大きく丸くくりぬかれていて、光はそこから入るのみだ。
真昼の太陽は、穴の真上を通る。
その光を浴びながら、テルは神官によって髪を切られるのだ。
荷物の中から美しい布で作られたひとつだけを、しっかりと両手で掴む。
そして。
光の差し込む中央へと、膝をつくのだ。
小刀を持った老いた神官が、恭しく近づいてくる。
光が――降り注ぐ。
穴の頂点に、太陽が昇ったのだ。
髪を、ひとまとめに握られる。
そして、小刀が。
さくっと。
入った。
それは。
一瞬のめまい。
視界がゆがみ、うねり、引き伸ばされる。
身体の内側から、大きな生き物が外に向かって出ようとしている圧迫感。
自分の身が、破裂してしまうかと思った。
そんな全身の内なる暴走と、歪む視界の中で。
テルは身をひねっていた。
そうしなければならなかったのだ。
振り上げられていたのは。
髪を切った小刀。
それが。
自分に向かって振り下ろされようとする。
立会いの神官らの悲鳴の最中。
テルは、『それ』を掴んで振り出していた。
彼が手元に置いておいた──たったひとつの荷物。
※
ガシャーン!
石の床を、小刀が転がってゆく。
「な、何をしているのです!」
取り押さえられる老神官は、何が起きたか分からないように呆然と立ちすくんでいた。
テルは。
しりもちをついていた。
あの、歪んだ視界の中で動いたのだ。
うまくバランスを、取っている暇などなかった。
しかし。
既に、視界は安定していて。
テルは、一番最初に自分の手を見た。
大きな褐色の手。
その手に握られている荷物は──美しい布の袋に包まれた物。
昨日、テルが無理やりに持ってこさせた、成人した自分への贈り物。
小刀に切られたのか、袋の一部は裂けていて。
そこから、美しい黒塗りが垣間見えていた。
刀だ。
キクが、成人した自分のために、神殿に届けてくれたものだ。
届いていると、確信していた。
もしそうでなければ、自分は弟子として失格だったということだ。
騒然とする周囲をよそに、テルは着替えを済ませ、そして腰に刀を差した。
キクがそうしていたように。
重い、な。
だが、よろつくことなどない。
もはや、テルは大人の身体を手に入れたのだ。
「で、殿下! も、申し訳ございませぬ!」
老神官は、引き立て連れて行かれる。
誰もが、その事実をうまく受け入れることも出来ないまま、青ざめたままテルに詫びるのだ。
勿論、詫びて済む問題ではない。
前代未聞の事件だろう。
成人の儀式の真っ最中に、神官が太陽の御子を害そうとしたのだから。
だが。
「そんなことはどうでもいい……それより、案内してもらいたい場所がある」
テルは、大事件を『そんなこと』として片付けた。
そうではないかと、想像はしていたのだ。
それが、当たっただけのことだった。
※
神殿の中庭で、昼の祈りを太陽に捧げる者の中に、その人間はいたのだ。
案内人に言われた男の前に、テルは立った。
40代半ばほどの男が、異変に気づき祈りをやめて彼を見た。
その目が、驚きに見開かれる。
「こんにちは……伯父上。お祈りは済みましたかな?」
テルは、ゆっくりゆっくりと、言葉を刻んだ。
昔、現太陽である父の兄は、成人の旅に失敗した。
失敗の理由は、月の者に殺されたせいだ。
そう、テルの伯父は死んだのである。
しかし父の兄は──二人いたのだ。
死んだのは、片方だけ。
もう片方は、期限までに神殿にたどり着くことが出来ず失敗した。
そう、生きている。
それが。
この男。
髪を伸ばせないイデアメリトスは、ごく普通の貴族程度の生活は許される。
人によっては──神官の道に入る者もいるのだ。
「叔母上は……死にましたよ?」
何故、貴方は生きているのですか?
テルは。
この男に、大きな嫌悪を抱いていた。
叔母を連れ出しテルを襲わせ、次に何の罪もない老神官を操って、彼を殺させようとした。
自分の手を、この男は決して汚そうとはしなかった。
おそらく伯父が得意なのは、人を操る魔法だ。
そうだったからこそ、叔母の逃亡の発覚は遅れ、今日の事件を引き起こせたのだから。
髪は短い。
しかし、ないわけではないのだ。
決して使ってはならないだけで、魔法を使えないわけではないのである。
伯父は、魔法を使った。
使ってはならぬ者が、使った。
「な、何の話だ?」
焦ったように、右手が動く。
刹那。
テルは、容赦なく刀を抜いた。
頭に触れかけたそれは、ただの肉の塊となって地面へ落ちる。
「いまのうちに髪を剃り上げて、石牢に放り込め」
響き渡る伯父の絶叫など無視し──テルは周囲の神官に指示を出したのだった。
※
「何やってるのよ!」
ヤイクと話をしていたテルの元に、オリフレアが飛び込んできた。
まだ、帰途についていなかったようだ。
おおかた成長したテルを、一目見てから帰る気だったのだろう。
「反逆者を捕まえただけだ」
もしも、この神殿で何も起きなかったならば、テルは自分の考えが間違いであったと思ったかもしれない。
正直なところ、切る前に襲われるかと思っていた。
だが、違った。
髪を切った直後のあのめまいの中では、襲われたとしてもとても抵抗できるものではなくて。
テルが刀を持ち込んでいたからこそ、かろうじてそれで弾き飛ばせたにすぎないのだ。
伯父の経験から、そのタイミングが一番だと確信していたに違いない。
旅を失敗して髪を落とした時は、さぞや苦々しい思いだっただろう。
それを揶揄するかのように、テルはその直後を狙われたのだ。
「神殿に刃を持ち込んで、血で汚さなくてもやり方はあったでしょう?」
オリフレアの剣幕に、彼は首をすくめた。
「持ち込んでない。神殿の中で受け取っただけだ」
これは、詭弁だ。
テルは、最初からそれが刀だと分かっていたが、神官たちはそうではなかったのだ。
あれほど美しい布に包まれていたため、何かの宝物だろうと勘違いしていたに違いない。
だからこそ神殿に持ち込まれ、そのままテルに渡したし、彼もまたそれを持って儀式に入ることが出来たのだ。
「大体……分かっていたなら、どうして教えなかったの? 儀式の時に、私が殺されていたかもしれないじゃない」
屁理屈を踏みつけにし、オリフレアは怒りをあらわにし続ける。
そこが、どうやら一番の怒りポイントだったらしい。
「優先順位だ……向こうが最初に殺したいのは、俺とハレ。お前を先に殺したら、騒ぎで俺を殺せなくなるかもしれないからな」
それに。
ぎゃんぎゃんとわめくオリフレアを見ながら、テルは思った。
彼女に語ってしまったが最後、余計なことをしでかしかねない。
それは逆に、彼女を危険にさらすことになるかもしれないのだ。
ようやく、全てが無事に決着した──そんなテルには、オリフレアの癇癪ですら心地よいものだった。