最後の夜
∠
テルが、その町に入った時。
目の前から、女が近づいてきた。
すらりとした長い手足。
弾けんばかりの胸のふくらみ。
晴れ晴れとした、そして力強い金褐色の瞳で、テルを真っすぐに見ている。
ふ、ん。
どんな姿をしていようとも、彼には分かる。
イデアメリトスの血は。
女にしては短すぎるその髪を一度見た後、テルは彼女の目を見つめた。
「何か、言ったら?」
不審者からかばおうとするビッテを、テルが横に押しやった直後、女が唇を開いた。
美しく紅を引いた唇を、だ。
「一番槍……めでたいことだな」
彼女の母に、よく似ている。
美しさも、傲慢さも。
もうしばらくすれば髪も長くなり、日向花の名を誰もがこぞって口にすることだろう。
「ふふ……太陽の息子たちを差し置いて、私が一番よ。一番最後に出立したのに」
だが、中身はまだまだ昔のオリフレアのままだった。
自分が一番才能があるのだと、言いたくてしょうがないのだろう。
「分かった分かった……だが、一人でウロつくな」
まだ、反逆者の件は解決していないのだ。
成人の儀を済ませ、魔法は解禁になったが、短い髪では強力な魔法は撃てないのだから。
「私は、一人になってなんかないわよ……いつも、あいつがついてるもの」
あいつ――姿は見えないが、あのフードの男がどこかにいるのだろう。
垣間見るだけだが、オリフレアはよい護衛を持っているようだ。
「さあ……次はあなたの番よ」
オリフレアが、道をあける。
彼女の後ろの、ずっと向こう。
高台の上から、こちらを見ている建物。
テルたちの、旅の目的地――捧櫛の神殿だった。
※
捧櫛の本神殿に入ることが出来るのは、テルと貴族の血筋のみ。
テルは、ヤイクを伴ってそこへ入った。
ビッテとエンチェルクは、神官の宿舎を借りて待つことになる。
まずは、成人の儀を執り行うための、手続きをしなければならない。
「ようやく、ここまで来ましたね」
彼は、ようやく肩の荷が下りたように、吐息をついた。
ここまで、危機の連続だったのだ。
彼が、安堵するのも仕方がないだろう。
「さて……」
案内された部屋で、テルが受け取ったのは父からの手紙だった。
到着次第、渡すようにという指示があったらしい。
その内容に、ざっと目を通す。
テルが最後に考えたことは、まだ父に手紙を書いてはいない。
しかし、その推理をこの手紙が裏付けてくれる可能性はあった。
イデアメリトスの血を引く者たちの現在の所在が、そこには記されていたのだ。
黒幕が誰なのか。
まだ、何の想像も出来ていなかった頃に、頼んでおいたのだ。
勿論、父も自分が動ける範囲で、調査を進めてはいるだろう。
そして、テルが目をつけた人間もまた、そこに記されていた。
ああ。
なるほど。
そういうことか。
そうだというのならば。
「俺の成人の儀が済んでから渡すように、頼まれたものがあるはずだ。それを、いま受け取りたい」
上位の神官を呼び、テルは確信していることを問い合わせた。
「ですが……それは……」
手順が違うことには、融通が利かない。
神官も役人も、さして差はない。
「宮殿から来たものを言っているのではない……宮殿以外の、まったく普通の人間から届いているものがあるだろう?」
太陽の刻印のないものだ。
それなら、渡しても差し支えあるまい?
テルの言葉に神官は戸惑っていたが、ようやくにして折れた。
宮殿から来たものでなければ、しきたりを守る必要などないのだから。
そして、テルはようやくにして──それを手に入れたのだった。
※
テルの成人の儀式は、翌日の真昼に決定した。
その夜、彼の時間はひどくゆっくりとして長いものになった。
明日、ついにテルは大人になるのだ。
名実共に。
この、もどかしいほどに小さい身体とも、お別れなのである。
大きい人間は、数多く見てきた。
特に、自分がなりたいと思う大きな身体は、キクの道場には本当にたくさんいて。
リリューもまた、その中の一人だった。
自分が、どんな姿に成長するのか、いまの時点ではまったく分からない。
ただ。
オリフレアは、彼女の母に似て想像通りの姿になっていた。
テルは、父というより先祖代々の正当派な、イデアメリトスの容姿をしているらしい。
そういう意味では、祖父が近いのだろう。
祖父の、若い頃の肖像画を思い浮かべる。
ああいう男になるのだろうか。
こんな風に、あれこれ考えていると、胸がざわざわしてなかなか眠れないのだ。
だが。
眠らなければならない。
寝台に横たわったまま、テルは己の長い長い髪に触れた。
子供の頃から付き合ってきたそれと、明日別れるのだ。
髪は、また伸びる。
しかし、いまあるこの髪こそが、テルのこれまで生きてきた歴史だった。
明日からまた、新しい歴史を作る。
それが、彼の仕事。
テルは。
目を閉じた。
眠るのは、嫌いではない。
目が覚めた時には、明日の太陽と再び会えるのだから。
道場の呼吸を思い出し、身体を落ちつける。
子供の最後の夜は──そうして終わったのだった。