葛藤
∞
「私は、どこにも行きません」
桃が、道場から出た時、家の前には三人の人間がいた。
母とエンチェルクと──男の人。
「貴女を置いて、私はどこにも行きません」
エンチェルクは、母にそう告げている。
目を潤ませて。
「私は、もう三十路も終わりです。殿下の旅に、最後まで同行できる体力があるかも不安です」
あのエンチェルクが、ありったけの理由を目の前に並べている。
だから、だめなのだと。
だから、殿下と一緒には行けないと。
殿下?
桃は、そこではっとした。
エンチェルクも、旅に誘われているのだ。
「テルの!?」
驚いて、桃は大きな声を出してしまった。
三人の視線が、はっとこちらを向く。
「エンチェルク、テルのお付きに誘われているの!?」
だとしたら。
だとしたら、どんなに素晴らしいことか。
テルの兄は、リリューと桃を誘った。
だが、彼自身は、まだ従者を選んでいないのだ。
桃は、確かに旅に出たいと考えていた。
しかし、テルの旅路を心配していないわけではないのだ。
「エンチェルク、行ってあげて。エンチェルクなら、きっとやり遂げられる。テルを守れるわ」
桃よりも腕が立ち、帯刀を許されている。
料理も裁縫も、彼女よりも素晴らしい。
長年、母の側にいるために、政治的能力も自分よりある。
そんな彼女が一緒なら、どれほどテルは心強いか。
だが。
エンチェルクは、首を横に振るのだ。
「参りません。私は……参りません」
彼女は、自分の両手を見る。
その手は──母だけを守ってきた手。
そんなことは、桃だって分かっている。
「かあさまなら、心配いらないから」
思えば、それは桃のひどく独りよがりな言葉だった。
自分も旅立ち、エンチェルクも旅立ってしまうと、母は一人残されるというのに。
なのに。
「そうね……私の心配なら、いらないわ」
母は、桃の言葉に──嬉しげに笑った。