幸せの大きさ
∞
桃は、何をどう言えばよかったのだろうか。
応接室の外が、何やら騒がしいのは分かっていたが、いまの彼女はそれどころではなくて。
ただ、エインが投げつけてきた、とんでもない生き物の処理に、本当に困惑していたのだ。
「本当は、君には感謝しなきゃならないんだ……私は」
先に、口を開いたのはエイン。
しかし、その言葉のどこに感謝が含まれているのか。
本当に、言いたくなくてしょうがない事が、彼の中にはてんこ盛りなのだろう。
「君のおかげで、私が養子になることが決まって、父上の息子になれたのだから」
ああ。
いたい、いたい。
小さなつぶてが、ぺちぺちと桃に当てられている気分だった。
本気で憎んだり恨んだりしていないのは分かるのだが、これまで彼の中に積もり積もった小石を、桃に投げつけずにはいられないようだ。
「私は、五人兄弟の末っ子で、みっつ年上の兄もいた。でも、父上は私を迷わず養子に選んだ」
何故か分かるか?
そんな視線が飛んでくるが、桃に分かるはずもない。
そしてまた、その答えが自分へのつぶてなのだろうということも、十分に分かっていた。
「私が……ただ一人、君より年下だったからだ」
意味が、よく分からない。
養子ならば、桃に関係なく好きな年の子を選べばいいのに。
「父上は……君の母上に、自分が結婚したと思わせたかったんだ」
あ。
桃は、『そう』思った。
父は誰かと結婚して、そして息子がいるのだ、と。
それと同じ誤解を、母に与えようとしたのだ。
何故?
何故そんなことをする必要が。
桃の疑問は──衝撃と共に解かれることとなる。
「君の母上が、父上にまったく気兼ねせずに生きられるように、だよ」
どれほど。
どれほど、父は母を愛していたのか。
その事実に、若い桃はただただうちのめされるしか出来なかった。
※
「まだ……あなたのお父上にお会いすることは出来ません」
長い長い沈黙の後。
一つ大きな深呼吸をして、桃はそう言った。
エインが、自分を押し殺してまで、彼女を父に会わせようとしてくれる気持ちはありがたいものだ。
自分の気持ちより、父の気持ちを汲んだということなのだから。
「何故!?」
何の障害もないのに断られるのは、理不尽だという視線が飛んでくる。
障害は、確かにない。
だが。
「私は、殿下のお付きですから。まだ神殿にたどり着いていないのに、それを放り出して行くわけにはいきません」
桃には、やるべきことがあったのだ。
絵の中から、母が見ている。
ここで桃が役目を放り出して父に会いに行こうものなら、きっと母は悲しむだろう。
そして桃自身もまた、この旅に意味を見つけていた。
ハレとコー、リリューにホックス。
皆が、大切な桃の旅の理由。
だから、その大切なことをやり遂げなければならなかった。
「で、では、帰りは?」
エインの言葉に、心が揺れる。
ゆらゆらと、甘い自分の心が揺れ動くのだ。
「都に帰りつくまでが……私の旅です」
母が。
母の絵が、そこになかったなら。
桃は、弱い娘になっていたかもしれない。
次が、あるのだ。
旅を成功させれば、桃にはいくらでも次の機会がやってくる。
母もきっと、娘の新たな旅立ちを止めはしないだろう。
ぐっと、エインは何かの言葉を飲み込んだ。
その表情に、微かな悔しさがにじんだ気がする。
そして。
ぽつりと、言った。
「君が……いやな女だったらよかったのに」
桃は──弟が父を愛する子でよかった、と思ったのだった。
※
部屋に戻ると、コーはぴくりとも動かないまま、ぐっすりと寝入っていた。
そんな彼女を横目に、桃は寝台へとひっくり返る。
今日は、本当にとんでもない一日だった。
まだ、全然頭の整理がついていない。
夫人との対面から、母の絵。
クージェの乱入に、晩餐のコー。
そして──エインとの対面。
晩餐の時から、彼は桃のことをじっと観察していたに違いない。
桃自身は、コーのことで一生懸命だったので、見知らぬお客に心を砕く暇もなかった。
もし、彼が弟だと知っていたなら、もっと彼女の晩餐は違うものになっていたことだろう。
おそらく、いまの三倍は疲れていただろうが。
分かったことは。
父が、いまでも深く深く母を愛しているということ。
離れていようが、領主という立場であろうが、父は母以外に愛する人を決して作らなかった。
それが、どれほどのことか。
何度も言うが、領主なのだ。
身分のある男は、結婚を早く迫られるもので。
結婚もせず、跡取りも作らず──それらに、周囲の反対は当然あっただろう。
だが、父は母と桃を選んだ。
そして。
母もまた、他の男を選ぶことはなかった。
『あなた一人を、命がけで産んだのですよ』
昔、エンチェルクに、そう教えてもらったことがある。
母は身体が弱く、本当は子供など産める状態ではなかったのだと。
母は命を賭け、父は愛の誓いを立てた。
その結果が、自分なのだ。
ああ。
かあさま、とうさま。
ありがとうございます。
いま、桃は自分が、世界で一番幸せな人間だと、強く強く噛みしめたのだった。