一筆
∴
ハレの部屋の、ノッカーが鳴った。
ホックスだった。
「ちょっと、よろしいでしょうか?」
元々、今夜彼はここにくる予定だった。
それにしては、言葉が変である。
しかし、どうやら別の話を抱えてきたようだ。
「殿下に、お願いしたいことが……」
扉が開けられると、少し遠いところから何やら騒いでいる声が聞こえてくる。
「どうかしたのか?」
急いで廊下へと出ると。
リリューとここの子息が、向かい合っている姿が見える。
ただし。
子息が、一方的にリリューに向かって騒ぎ立て、なおかつ手を上げているようだが。
それに、抵抗もせずにぶたれている。
リリューなら、簡単によけられるだろうに。
ということは、わざと──ぶたれているのだ。
「従者なら従者らしく、膝を折れ!」
近づくと、クージェの怒った声が聞こえてくる。
「私の従者ですよ……何をなさってますか?」
ハレは、低く静かに声をかけた。
はっと、クージェは振り返る。
怒るのに必死で、周囲のことが見えていなかったようだ。
「こ、これは殿下……殿下の従者が、私に礼のひとつもしないとはどういうことですか。この者は貴族ではないでしょう!」
とても分かりやすい、怒りの理由だった。
自分より上か下かで物を考え、下の者には何をしてもいいと勘違いしているようだ。
リリューもまた、この男に儀礼的な挨拶をしたくないと思っているようだ。
「確かに貴族ではありませんが、私の旅が成功したら……賢者になるかもしれない男ですよ」
権力嗜好には、権力の話をぶつけるのが早い。
ハレは、そう思ったのだ。
そして、効果てきめんだった。
クージェは、うぐっと言葉に詰まり、慌てて逃げ去ってしまったのだから。
リリューが、怪訝な目で自分を見ている。
「毒を持って毒を制しただけだよ……私の気持ちは、旅立ちの時から何一つ変わってはいないからね」
何一つ──それは、少し嘘だったのかもしれない。
※
「夫人も、子息には手を焼いているだろうね」
ホックスとリリューを部屋に招き入れながら、ハレは苦笑した。
自分より上の人間には、なまじ外面がよいので分かりづらいが、あれでは使用人にさぞや嫌われているだろう。
血のつながらない親子でもあり、男親がいないということもあり、夫人は強くクージェを叱れないのかもしれない。
「最初は、こっそり女性の部屋に、入ろうとしていたのです」
ホックスも呆れたように、ため息をつく。
モモは、テイタッドレック卿の子息と話をするために、応接室に行ったらしい。
そして、一人残っていたコーは、外の騒ぎなどなんのその。
ぐっすりと眠りこんでいた。
ホックスがクージェを止めなければ、ひどいことになっていたかもしれない。
「彼が領主になると考えると……頭の痛いことですね」
ホックスは、本当に憂慮しているようだった。
これまで、いくつもの領主を経由してここまで来た。
だからこそ、余計に比較が出来るのだ。
いや、よそと比較するまでもない。
ここには、イエンタラスー夫人という、きちんとした女性領主がいるのだから。
「もし、彼が男でなければ……捧櫛の神殿まで連れて行くのだけどね」
ハレが言うと、本当にホックスは驚いた顔を向けた。
「あんな男と、一緒に旅をしてもいいと考えられるのですか?」
そんな彼の表情の方が、いまのハレにとっては愉快なことで。
最初の頃と比べると、随分と表情豊かになったように思えた。
「苦難を乗り越えれば、人は変わる……そうだろう?」
ハレは。
ホックスと、リリューを交互に見た。
ここまで、往路の半分の旅路は、決して易しいものではなかった。
死を、ほんのそこまで感じたこともあった。
だからこそ、みな変わってきたのだ。
頭でっかちなだけだったホックスが、領主の後継に憂慮するようになるほど。
「まあ……そうです、が」
彼は、想像の中だけでもクージェと同行するのは、御免のようだ。
「一応……出来る限りのことはしておこう」
ハレは。
一筆したためることにした。