父上
∞
ノッカーが鳴った。
コーは慣れない晩餐で疲れてしまったらしく、脱いだ綺麗な衣装を抱きしめたまま、すやすやと眠りについている。
慌てて桃は、そんなコーに掛布をかけた。
誰かと思ったら──ホックスだった。
明日の出発のことだろうかと思ったら。
彼の後ろには、一人の青年が立っていた。
「こちらの方に、紹介を願われました」
不慣れな貴族仕事に、ホックスはやや迷惑そうだ。
そういえば、夫人側に一人、見知らぬ男がいた。
コーの世話で忙しくて、それどころではなかったのだ。
「ええと……」
桃は、後方をかえりみた。
眠っているコーの横で、話をするのも気が引けたのだ。
「夫人に、応接室をお借りしています」
わざわざホックスを間に立て、女性の部屋での話ではなく、応接室の手配まで済ませている。
非常に丁寧な根回しだった。
少なくとも、クージェのような不躾な人間ではないようだ。
「では、そちらで」
桃は、怪訝に思いながらも、彼らについて応接室へと向かった。
リリューも背が高いが、この青年は彼よりもうちょっと高いのではないだろうか。
「クージェリアントゥワスに頼むつもりだったんですが、断られました」
応接室。
母の絵のあるそこで、桃は夫人の息子を袖にした。
それと同じ場所で、その事件を揶揄されると、桃も恥ずかしい。
勿論、この青年がどこまで知っているかは分からないが。
そんな恥ずかしさも。
彼が言った言葉で、全て吹っ飛んだ。
「私の名は……エインライトーリシュト=テイタッドレック=キルルスファイツです」
何の、心の準備もしていなかった。
テイタッドレック。
桃が、決して忘れるはずのない名。
桃の──ひとつ下の弟。
※
「……山本桃と申します」
慎重に、モモは挨拶をした。
その名は、この国に登録されている正式なものではなく、母の国の形にのっとった表現。
モモ・ヤマモト・ニホン。
この国に登録されているものを、全部名乗ったとしてもこの程度の、短いもの。
じっと。
じっと、エインを見る。
背が高いはずだ。
自分と同じ血が、流れているのだから。
礼儀正しい人でよかった。
クージェのような人が弟なら、きっと桃は困っただろう。
そして。
桃が、何者なのか分かっていて、わざわざ面会の時間を作ってくれた。
それは。
姉であると知っているということ。
分かってます、かあさま。
頭に浮かんだ母を、桃は無理におしのけたりはしなかった。
「初めてお目にかかります……どうぞよろしく」
桃は、静かに目上の相手に対する儀礼を取った。
弟であろうと、相手は領主の息子。
次期、テイタッドレック卿になる男なのだ。
じっと。
向こうも、じっと桃を見ている。
「剣を習っていると聞きました……」
エインは、言う。
誰から聞いたか、ということはない。
「はい、まだ未熟ですが」
一言一言、噛みしめるようにゆっくりと言葉にする。
「母上は、お元気ですか?」
彼の視線が、一瞬だけ絵に跳ぶ。
あの絵が、一体誰なのかを知っているのだ。
「はい、おかげさまで元気です」
一枚の薄い壁越しに会話しているような、もどかしさ。
「……」
「……」
向こうもそう感じているのか、あっという間に──話すことがなくなってしまった。
※
この沈黙に、一番つらい思いをしているのは──ホックスだったろう。
紹介に立った手前、さっさと帰るわけにもいかず、彼は桃の隣に座っていたのだ。
「悪いが、ちょっと席を外しても構わないか?」
どうにもこうにも、耐えられなくなったようだ。
ハレに用があると言われては、誰もそれを拒むことは出来ないだろう。
たとえそれが、単なる口実にすぎなくとも。
そして。
ホックスは、逃げてしまった。
結果──エインと二人きりになったのだ。
ふぅ、と。
彼が吐息をつく。
視線が、横へと逃げてゆく。
エインもまた、この状況をきちんと扱えていないのだろう。
しっかりしているように見えても、17歳なのだ。
複雑で、当然だろう。
「お、お父上はお元気でいらっしゃいますか?」
桃は、勇気を振り絞った。
出来るだけ、相手の気持ちに配慮した表現にしたつもりだ。
だが。
彼は、桃を見ると険しい表情を浮かべたのだ。
「父上は……」
あ。
桃は、何かを察した。
彼の口にする『父上』に、微かな含みを感じたのだ。
「父上は……あなたに会いたくないそうだ」
パキンッ。
いま。
いま、何が割れた音がしたのだろう。