青虫を愛するお姫様は蝶々の夢を見ない~婚約破棄された虫姫は、王国を捨てて辺境で幸せになります~
第一章 虫姫は婚約破棄される
「エルシア・フォン・リーベルシュタイン! 貴様との婚約を、今日この場で破棄する!」
王宮の大広間に、第一王子クラウスの声が響き渡った。
楽団の演奏が止まる。
貴族たちが一斉に振り返る。
その視線の先にいたのは、薄緑色のドレスを着た一人の少女だった。
エルシア・フォン・リーベルシュタイン。
隣国から嫁いできた第二王女であり、クラウス王子の婚約者である。
年齢は十九歳。
本来なら、息を呑むほど美しい娘だった。
透き通るような白い肌。腰まで届く銀色の髪。夜明け前の空を思わせる紫色の瞳。
だが、その美貌を知る者はほとんどいない。
なぜなら彼女は、分厚い丸眼鏡をかけ、前髪を鼻先まで伸ばし、いつも俯いているからだ。
社交界では「陰気な虫姫」と呼ばれていた。
そして今、その虫姫は。
「…………」
婚約破棄を宣言されたにもかかわらず、何も答えなかった。
「聞いているのか、エルシア!」
「…………」
「返事をしろ!」
「……あ」
ようやく声が出た。
「……すみません」
「謝罪など求めていない!」
「……この子が」
エルシアは両手をそっと開いた。
白い手袋の上に、丸々と太った青虫が一匹。
鮮やかな若草色の身体。小さな黒い斑点。頭の近くには、申し訳程度の角が二本。
エルシアは青虫を見つめて、ほんの少し口元を緩めた。
「……脱皮しそうで」
「知るかああああ!」
王子の怒声が大広間を揺らした。
青虫がびくりと縮こまる。
エルシアの眉が、わずかに動いた。
「……大きな声は、困ります」
「何だと?」
「……この子、繊細なので」
「貴様は!」
クラウス王子は真っ赤になった。
「そういうところが気に入らんのだ! 虫! 虫! 虫! いつも虫ばかり! 王太子妃になる女が、なぜそんな気味の悪いものに夢中なのだ!」
エルシアは黙って青虫を袖の中へ戻した。
(……気味が悪い)
その言葉は、何度も聞いた。
虫は気味が悪い。
虫を愛する自分も気味が悪い。
もう慣れている。
ただ、虫の前で怒鳴られるのは嫌だった。
「エルシア! 貴様には王太子妃としての品格がない!」
「……はい」
「社交もできん! まともに会話もできん!」
「……はい」
「そのうえ、得体の知れない虫を王宮中に持ち込んで!」
「……得体は、知れています」
「何?」
「……あの子は、オオツノホシマユの三齢幼虫です」
「どうでもいい!」
「……そうですか」
エルシアは少し残念そうに俯いた。
クラウス王子は、隣に立つ美しい少女の腰を抱き寄せた。
「見ろ! これが本物の聖女だ!」
少女の名はセレスティーヌ。
金色の髪を巻き、真珠のように白いドレスをまとった、華やかな美少女だった。
彼女が指先を掲げると、光り輝く蝶が何十匹も現れた。
青、赤、金、銀。
宝石のような蝶たちが大広間を舞う。
「まあ!」
「なんて美しい!」
「さすが蝶の聖女様!」
貴族たちが歓声を上げた。
セレスティーヌは優雅に微笑んだ。
「エルシア様。お気の毒ですわ。でも、クラウス様は未来の国王ですもの。虫しか愛せない方では、お支えできませんわ」
「……そうですね」
「わかってくださるのね!」
「……蝶は、卵を産みますか?」
「え?」
セレスティーヌが瞬いた。
「……あなたの蝶です」
「それが何かしら?」
「……産卵するところを、見たことがありません」
大広間が静まり返った。
セレスティーヌは困ったように笑った。
「まあ、エルシア様ったら。こんなときまで虫のお話?」
「……気になって」
「蝶は美しいものですわ。卵だの幼虫だの、そんな汚らしいことを考える必要はありません」
エルシアは首を傾げた。
「……でも」
「もうよい!」
クラウス王子が遮った。
「貴様との婚約は破棄だ! 今夜中に王宮を出ていけ!」
エルシアは、しばらく黙っていた。
それから、小さく尋ねた。
「……温室は?」
「何?」
「……温室の、青虫たちは」
「知るか! あんなもの、明日にでも焼き払ってやる!」
エルシアの指が止まった。
ほんの一瞬。
「…………」
「何だ、その顔は」
「……焼く?」
「当然だ! 王宮を汚す害虫など、一匹残らず処分する!」
エルシアは、ゆっくり顔を上げた。
分厚い眼鏡の奥。
紫色の瞳が、じっと王子を見つめた。
「……それは」
声は小さかった。
「……困ります」
「貴様の都合など知らん!」
「……困るんです」
「くどい!」
エルシアは口を閉じた。
そして、静かに頭を下げた。
「……わかりました」
王子は勝ち誇ったように笑った。
「ようやく理解したか!」
「……はい」
エルシアは、もう一度青虫を確かめた。
小さな命は、彼女の袖の中で静かに眠っていた。
「……では、失礼します」
そう言って、彼女は大広間を出ていった。
誰も気づかなかった。
そのときエルシアが、クラウス王子を一度も見なかったことに。
そして、二度とこの国へ戻るつもりがなかったことに。
第二章 虫姫の温室
エルシアが王宮で最も愛していた場所は、北庭の奥にある古い温室だった。
もともとは先代王妃が珍しい花を育てていた場所である。
しかし王妃の死後、誰も手入れをしなくなり、窓は割れ、蔦が壁を覆い、荒れ果てていた。
エルシアがそこを与えられたのは、三年前。
クラウス王子との婚約が決まった直後だった。
「こんな陰気な女、王宮の目立つところに置くな」
そう言ったのは、当時の王妃だった。
エルシアは特に気にしなかった。
温室があれば、それでよかった。
彼女は自分の持参金を使い、温室を修復した。
割れた窓を直し、魔法灯を設置し、土を入れ替えた。
そして、故郷から連れてきた青虫たちを育て始めた。
三年後。
温室には、数千匹の青虫が暮らしていた。
もちろん、すべてが同じ種類ではない。
金色の斑点を持つもの。
透明な身体を持つもの。
魔力を食べて青く光るもの。
葉の裏にしか卵を産まないもの。
そして、王国の古い伝承にしか登場しない、幻の魔蚕。
エルシアは、それらすべてを記録していた。
食べる葉の種類。
脱皮までの日数。
魔力の変化。
繭の性質。
産卵数。
死亡率。
一匹ずつ、丁寧に。
「……ただいま」
温室の扉を開けると、湿った土と若葉の匂いがした。
エルシアは深く息を吸った。
ようやく落ち着く。
「……今日は、少し大変でした」
返事はない。
当たり前だ。
青虫は喋らない。
エルシアはそれが好きだった。
人間は、返事を求める。
笑顔を求める。
美しさを求める。
気の利いた会話を求める。
だが、青虫は何も求めない。
葉を与えれば食べる。
眠くなれば眠る。
嫌なら顔を背ける。
その正直さが、エルシアには何より心地よかった。
「……明日、引っ越しです」
彼女は飼育箱を一つずつ確かめた。
「……少し、揺れます」
葉の上で眠っていた青虫が、もぞりと動いた。
エルシアは小さく笑った。
そのとき。
「姫様!」
温室の扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、侍女のマーサだった。
五十歳を過ぎた、ふくよかな女性である。
エルシアが故郷から連れてきた、唯一の侍女だった。
「婚約破棄されたと聞きました! 本当ですか!」
「……はい」
「なんということを!」
マーサは顔を真っ赤にした。
「三年間も姫様を蔑ろにしておいて、今度は追放ですって!? あの馬鹿王子!」
「……マーサ」
「はい!」
「……声が、大きいです」
「あっ、申し訳ありません」
マーサは慌てて口を押さえた。
エルシアは、青虫の飼育箱に布をかけた。
「……荷造りを、手伝ってください」
「もちろんです! こんな国、さっさと出ていきましょう!」
「……はい」
「それで、どちらへ?」
「……北方です」
「北方?」
「……ヴァルハイト辺境伯領」
マーサが目を丸くした。
「魔獣が出るという、あの?」
「……はい」
「どうしてまた!」
「……珍しい、青虫がいるそうです」
マーサは天井を仰いだ。
「姫様!」
「……それに」
エルシアは、少しだけ声を落とした。
「……あそこなら、みんなを育てられます」
マーサは黙った。
彼女は知っていた。
この温室の青虫たちが、ただの趣味ではないことを。
三年前、リーベルシュタイン王国では、農地の魔力が枯渇しかけていた。
魔力を失った土は作物を育てられない。
結界を張るための魔糸も不足していた。
そのときエルシアが、故郷から持ち込んだ青虫の研究で問題を解決した。
魔力を吸収して土に戻す、ツチモドシアオムシ。
結界に使える強靱な糸を吐く、銀糸魔蚕。
そして、魔力の偏りを感知する、ホシマユ。
彼女は三年かけて繁殖させ、農地へ送り出した。
だが、その功績は王宮に報告されなかった。
正確には、報告書を出しても誰も読まなかった。
「虫の話など聞きたくない」
王子はそう言って書類を突き返した。
王宮の農政官だけは、エルシアの研究を理解していた。
しかし彼は、彼女の名前を表に出さず、成果を自分のものとして報告していた。
エルシアはそれも気にしなかった。
青虫が元気なら、それでよかった。
「……マーサ」
「はい」
「……輸送箱は、百二十個あります」
「百二十!?」
「……卵が、三百七十四」
「はい」
「……蛹が、二百八十一」
「はい」
「……幼虫が、四千六百十九」
マーサはしばらく黙った。
「……姫様」
「……はい」
「馬車、何台必要でしょうね」
「……八台です」
即答だった。
マーサは笑った。
「では、八台用意しましょう!」
エルシアは、ほんの少し微笑んだ。
第三章 焼かれた温室
翌朝。
エルシアは夜明け前から荷造りをしていた。
王宮の裏門には、八台の馬車が並んでいる。
飼育箱はすべて積み込んだ。
卵も、蛹も、幼虫も。
研究日誌は四十七冊。
標本箱は十二箱。
種子と苗木は二十箱。
マーサは馬車の数を数えながら、ため息をついた。
「まるで昆虫の大移動ですね」
「……はい」
「姫様のお洋服は?」
「……一箱です」
「少なすぎます!」
「……眼鏡は、三つあります」
「眼鏡の話ではありません!」
エルシアは首を傾げた。
服は着られればよい。
虫の飼育に邪魔にならなければ、何でもよかった。
そんな彼女が最後に温室へ戻ったのは、忘れ物を取りに行くためだった。
奥の棚に、古い木箱が残っていた。
エルシアが初めて育てた青虫の、抜け殻が入っている。
小さな、小さな宝物。
彼女が扉に手をかけた、そのとき。
「おい、火をつけろ!」
聞き覚えのある声がした。
クラウス王子だった。
温室の前に、兵士たちが集まっている。
その中央で、セレスティーヌが白い扇を広げていた。
「まあ、なんて汚らしい場所なのでしょう」
「だろう? こんな場所を三年も放置していたとは、我ながら情けない」
クラウスは鼻を鳴らした。
「今日からは、ここにセレスティーヌの蝶園を作る!」
「素敵ですわ!」
「まずは害虫を焼き払う!」
エルシアは足を止めた。
「……待って」
兵士が振り返った。
クラウスも彼女に気づいた。
「何だ、まだいたのか」
「……中に」
「虫ならもう運び出したのだろう?」
「……まだ、あります」
「知るか!」
王子は手を振った。
「燃やせ!」
兵士が火炎魔法を放った。
赤い炎が、乾いた蔦に燃え移る。
窓枠が燃え、屋根へ広がる。
エルシアは駆け出した。
「……待って!」
マーサが慌てて腕をつかむ。
「姫様! 危険です!」
「……奥に、まだ!」
「駄目です!」
エルシアは振りほどこうとした。
だが、温室の屋根が崩れ落ちた。
轟音。
火の粉。
熱風。
エルシアは立ち尽くした。
古い木箱。
その中には、抜け殻だけではなく、最後の一匹がいた。
生まれつき脚が弱く、ほかの青虫のように葉を登れない、小さな青虫。
エルシアが三年間、毎日手で葉を運んで育てていた子だった。
昨日の夜、あの子だけを移し忘れていた。
「…………」
温室が燃えている。
クラウスが笑った。
「これで清々した! ようやく王宮がまともになる!」
セレスティーヌも微笑んだ。
「まあ、クラウス様。これで美しい蝶のお庭が作れますわね」
エルシアは何も言わなかった。
ただ、崩れ落ちる温室を見つめていた。
やがて火が消えた。
彼女はマーサの制止を振り切り、焼け跡へ歩いていった。
灰をかき分ける。
黒焦げの棚を持ち上げる。
そして、奥にあった木箱を見つけた。
蓋は焼け落ちていた。
中には、何も残っていなかった。
「…………」
エルシアは、膝をついた。
小さな指で、灰をすくう。
何度も。
何度も。
マーサが泣いていた。
「姫様……」
エルシアは、ようやく口を開いた。
「……ごめんね」
誰に謝ったのか。
マーサには、わかっていた。
エルシアの頬を、一筋の涙が伝った。
それを見ていたクラウスは、鼻で笑った。
「虫一匹で泣くとは、まったく馬鹿馬鹿しい!」
エルシアは顔を上げた。
「……殿下」
「何だ」
「……この温室は、私の持参金で建て直したものです」
「だから何だ!」
「……中の設備も、研究資料も、私の所有物です」
「ふん。ならば賠償金でも請求するつもりか?」
「……はい」
クラウスは目を見開いた。
「何?」
「……請求します」
エルシアは立ち上がった。
眼鏡の奥の瞳は、静かだった。
「……全部」
その声に、なぜかクラウスは背筋が冷たくなった。
だが、すぐに笑い飛ばした。
「好きにしろ! 虫の値段など、たかが知れている!」
エルシアは答えなかった。
ただ、焼け残った木箱を抱きしめた。
そして、王宮を去った。
二度と振り返らずに。
第四章 辺境伯は虫を嫌わない
ヴァルハイト辺境伯領は、王都から馬車で十日の距離にあった。
北方の山々に囲まれた、寒冷な土地である。
魔獣が多く、農作物は育ちにくい。
人々は貧しく、冬になると食料が不足する。
王都の貴族たちは、この土地を「王国の墓場」と呼んでいた。
エルシアは、馬車の窓から外を眺めていた。
「……いい土地」
マーサが耳を疑った。
「はい?」
「……湿地が、多いです」
「ええ、そうですね」
「……苔も、豊富」
「そうですね」
「……あの倒木の下」
エルシアが指差した。
「……珍しい、幼虫がいます」
マーサは窓の外を見た。
ただの腐った木にしか見えなかった。
「姫様には何が見えているのでしょうねえ」
「……青虫です」
「それは存じております」
辺境伯の城に到着したのは、夕暮れだった。
城は古く、石壁には蔦が絡みついていた。
門の前には、黒い外套をまとった大柄な男が立っていた。
ガイゼル・ヴァルハイト。
二十八歳。
王国最北端を守る辺境伯である。
背が高く、肩幅が広い。
黒髪は短く切り揃えられ、左頬には大きな傷跡が走っていた。
その容貌から、王都では「北の魔獣」と恐れられている。
「エルシア王女殿下ですね」
ガイゼルは丁寧に頭を下げた。
「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」
「……はい」
「事情は書簡で伺っています。こちらでは、どうぞ自由にお過ごしください」
「……ありがとうございます」
「ただ、ひとつ確認が」
「……はい」
ガイゼルは馬車の列を見た。
「八台の馬車には、何が?」
「……青虫です」
沈黙。
「……青虫?」
「……はい」
「八台全部?」
「……はい」
ガイゼルはしばらく考えた。
そして、真顔で尋ねた。
「餌は足りていますか?」
エルシアが顔を上げた。
「…………」
「この辺りは冬が早い。必要な植物があるなら、温室を用意した方がいいでしょう」
「……温室」
「ええ」
「……作って、いただけますか」
「もちろん。どの程度の広さが必要ですか?」
「……できれば、三百平方メートル」
「わかりました」
「……湿度は、七十パーセント」
「調整しましょう」
「……夜間は、十八度以下にしないでください」
「魔法炉を設置します」
エルシアは、じっとガイゼルを見つめた。
長い前髪の隙間から、紫色の瞳が覗く。
「……気持ち悪く、ないんですか」
「何がです?」
「……青虫」
ガイゼルは首を傾げた。
「別に。害がないなら問題ありません」
「…………」
「それに、虫が好きな人間がいても不思議ではないでしょう」
エルシアは黙った。
そんな当たり前のことを言われたのは、初めてだった。
「……あの」
「はい」
「……見ますか」
「何を?」
「……青虫」
ガイゼルは少し驚いた顔をした。
それから笑った。
「ぜひ」
その夜。
辺境伯は三時間、青虫の説明を聞くことになった。
「……この子は、ツチモドシアオムシです」
「ほう」
「……土の魔力を、循環させます」
「なるほど」
「……こちらは、銀糸魔蚕」
「綺麗な色ですね」
「……繭が、結界の材料になります」
「それはすごい」
「……この子は」
エルシアは小さな飼育箱を持ち上げた。
「……特に、好きです」
中には、丸々と太った青虫がいた。
「……食欲が、すごいので」
「確かに、よく食べていますね」
「……昨日は、自分の体重の三倍」
「それは立派だ」
エルシアの口元が、わずかに上がった。
ガイゼルは、それを見逃さなかった。
この少女は、虫の話をしているときだけ笑う。
それが不思議で、少し面白かった。
「ところで、王女殿下」
「……はい」
「私のことは、ガイゼルと呼んでください」
「……ガイゼル様」
「はい」
「……あなたは」
「何でしょう」
「……とても、いい人です」
ガイゼルは思わず笑った。
「虫を嫌わないだけですよ」
エルシアは首を横に振った。
「……それが、難しいんです」
第五章 青虫たちの仕事
辺境伯領での生活は、エルシアにとって天国だった。
誰も虫を嫌がらない。
いや、最初は嫌がる者もいた。
だが、ガイゼルが「王女殿下の大切な研究だ」と説明すると、領民たちは興味を持ち始めた。
ある日。
エルシアは農地を見に行った。
畑には、枯れかけた麦が並んでいた。
農夫たちが困った顔をしている。
「今年も駄目か……」
「土が死んでいるんだ」
「肥料を入れても、何も変わらねえ」
エルシアは土を一握り取った。
指先で崩す。
魔力の流れを確かめる。
「……足りない」
ガイゼルが隣に立った。
「何がです?」
「……土の中の、循環です」
「魔力が?」
「……はい」
エルシアは飼育箱を取り出した。
中には、緑色の青虫が十匹。
「……この子たちを、放しても?」
農夫が顔をしかめた。
「虫を? 麦を食われちまいますよ!」
エルシアは首を横に振った。
「……麦は、食べません」
「本当ですかい?」
「……腐った葉だけ」
彼女は、青虫を畑の端へ置いた。
青虫たちは、ゆっくり土の中へ潜っていった。
三日後。
麦の葉が、少しだけ青くなった。
七日後。
畑全体に、緑が戻り始めた。
二週間後。
農夫たちは、目を疑った。
「お、おい!」
「麦が!」
「こんなに育つなんて!」
土は柔らかくなり、根は深く伸び、枯れかけていた麦が一斉に穂をつけ始めた。
ガイゼルは畑の前で立ち尽くした。
「……これは」
エルシアは、青虫を一匹持ち上げた。
「……頑張りました」
青虫は、もぐもぐと葉を食べていた。
「……えらいです」
農夫の一人が、帽子を脱いだ。
「姫様! ありがとうございます!」
「……いえ」
「うちの畑にも、分けていただけませんか!」
「……はい」
「俺のところにも!」
「……はい」
「姫様! 虫の育て方を教えてください!」
エルシアは、ぴたりと止まった。
「……育て方?」
「ええ!」
「……本当に?」
「もちろんです!」
エルシアの瞳が、輝いた。
それから二時間。
農夫たちは、青虫の食性と繁殖方法について、延々と講義を受けることになった。
途中で誰かが言った。
「姫様、もう少し簡単に……」
「……あ」
エルシアは我に返った。
「……すみません」
ガイゼルが笑った。
「私が要点をまとめましょう」
彼はエルシアの研究日誌を開いた。
「つまり、この虫は腐葉土を食べ、土に魔力を戻す。ただし、生きた麦は食べない。そうですね?」
「……はい」
「餌になる落ち葉を畑の端に積み、農薬を使わない。それでよろしいですか?」
「……はい」
「では皆さん、まずはそれを守ってください」
農夫たちが一斉にうなずいた。
エルシアはガイゼルを見つめた。
「……すごい」
「何がです?」
「……私の話、わかるんですね」
「説明が丁寧ですから」
「……三時間、聞いてもらっても?」
「三時間?」
ガイゼルは少し考えた。
「夕食の後なら」
エルシアは、ぱっと顔を明るくした。
その笑顔を見たガイゼルは、なぜか胸が苦しくなった。
一方、辺境伯領では、次々と変化が起こっていた。
銀糸魔蚕の糸で作った結界は、魔獣の侵入を防いだ。
魔力を感知するホシマユは、地中の鉱脈を発見した。
そして、エルシアが繁殖させた特殊な青虫は、薬草畑の病害を防いだ。
一年も経たないうちに、辺境伯領は王国有数の豊かな土地へ変わり始めた。
領民たちは、エルシアをこう呼ぶようになった。
「青虫の聖女様」
しかし本人は、その呼び名があまり好きではなかった。
「……聖女じゃ、ないです」
「では、何とお呼びすれば?」
「……虫好きで」
農夫たちは笑った。
「じゃあ、虫姫様だ!」
エルシアは少し考えた。
「……それなら」
悪くなかった。
第六章 蝶の聖女の秘密
その頃、王都では異変が起きていた。
最初におかしくなったのは、農地だった。
春になっても麦が芽吹かない。
芽吹いても、すぐに枯れる。
土は固く、魔力は失われていた。
農政官たちは慌てた。
「どういうことだ!」
「去年までは問題なかったはずだ!」
「土壌改良の魔法を使え!」
しかし、何をしても効果はなかった。
やがて、王宮の結界にも異常が現れた。
魔獣を防ぐための結界が、少しずつ薄くなっていったのである。
クラウス王子は激怒した。
「なぜだ! なぜこんなことになっている!」
農政官は震えながら答えた。
「そ、それが……」
「早く言え!」
「土壌の魔力を循環させていた虫が、いなくなりまして……」
「虫?」
「はい」
「虫など、どこにでもいるだろう!」
「いえ、特殊な魔虫でして……」
農政官は額に汗を浮かべた。
「エルシア王女殿下が、育てておられたものです」
クラウスは顔をしかめた。
「またあの虫女か!」
「殿下……」
「何だ!」
「王国の農地の三割は、あの虫によって維持されておりました」
沈黙。
「……三割?」
「はい」
「そんな馬鹿な!」
「王宮の結界に使う魔糸も、ほとんどがエルシア様の研究によるもので……」
「なぜ今まで報告しなかった!」
農政官は青ざめた。
報告書は出していた。
ただし、研究者の名前を消し、自分の功績として提出していた。
王子が虫の話を嫌がるため、詳細も省いていた。
「そ、それは……」
「答えろ!」
農政官は、ついに膝をついた。
「申し訳ございません!」
クラウスは椅子を蹴った。
「ならば虫を増やせばよいだろう!」
「その繁殖方法が……」
「何だ!」
「エルシア様にしか、わからないのです」
クラウスは歯ぎしりした。
そのとき、扉が開いた。
「クラウス様!」
セレスティーヌが入ってきた。
彼女の周囲には、美しい蝶が舞っている。
「そんなにお困りなら、わたくしの蝶を使えばよろしいではありませんか!」
クラウスは顔を輝かせた。
「そうだ! お前の蝶がいる!」
セレスティーヌは微笑んだ。
「蝶は魔力の象徴ですもの。きっと農地も元気になりますわ」
彼女は王都の畑へ赴き、蝶を放った。
数千匹の蝶が、金色の光をまとって舞い上がった。
人々は歓声を上げた。
「聖女様!」
「美しい!」
「これで王国は救われる!」
しかし。
一週間後。
畑は、さらに悪化していた。
蝶たちは花の蜜を吸い尽くし、魔力を奪って死んでいった。
しかも、卵を産まなかった。
一匹も。
「どうして……?」
セレスティーヌは青ざめた。
彼女の力は、蝶を生み出すものではなかった。
もともと存在する幼虫の成長を、無理やり早めるものだったのだ。
幼虫は十分に栄養を蓄えられないまま蛹になり、蝶になる。
美しい羽を持っていても、身体の中は未成熟。
繁殖する力も、長く生きる力もない。
ただ、一瞬だけ美しく輝いて死ぬ。
それが、セレスティーヌの蝶だった。
「……卵を産みますか?」
かつてエルシアに尋ねられた言葉が、セレスティーヌの耳に蘇った。
彼女は唇を噛んだ。
「そんな……」
王都では飢饉の兆しが現れ始めた。
農地は荒れ、食料の価格が高騰した。
魔獣の侵入も増えた。
そして、とうとう王宮の結界が破れた。
第七章 虫姫は恋を知らない
辺境伯領では、初雪が降っていた。
エルシアは温室の中で、青虫の観察をしていた。
「……今日は、静かですね」
隣にいたガイゼルが笑った。
「雪の日は、外も静かですから」
「……好きです」
「雪が?」
「……はい」
ガイゼルは少し残念そうな顔をした。
エルシアは気づかなかった。
彼女は青虫の飼育箱を持ち上げた。
「……この子も、好きです」
「そうでしょうね」
「……あの子も」
「ええ」
「……ガイゼル様も」
ガイゼルは、ぴたりと止まった。
「……今、何と?」
「……ガイゼル様も、好きです」
沈黙。
温室の魔法炉が、ぱちりと音を立てた。
ガイゼルは咳払いした。
「それは……どういう意味で?」
エルシアは首を傾げた。
「……好きは、好きです」
「そうですか」
「……はい」
ガイゼルは、しばらく天井を見上げた。
「……困ったな」
「……何がですか」
「いや、こちらの話です」
エルシアは不思議そうに瞬いた。
ガイゼルは、彼女の顔を見つめた。
長い前髪。
分厚い眼鏡。
地味なドレス。
初めて会ったときから、彼女は何も変わらない。
だが、彼にはもうわかっていた。
彼女がどれほど美しいか。
そして、それ以上に、どれほど愛情深い人間なのか。
エルシアは、虫が死ぬと泣く。
領民が病気になると、薬草を調べて夜通し看病する。
農夫が収穫に失敗すると、自分の研究が足りなかったのだと落ち込む。
誰かに褒められても、決して自分の功績だとは言わない。
ただ、青虫を見つめて微笑む。
そんな彼女を、ガイゼルはいつの間にか愛していた。
「エルシア様」
「……はい」
「眼鏡を、外してもよろしいですか」
「……どうして?」
「少し、顔が見たくなりまして」
エルシアは考えた。
「……変な男の人が、来ませんか」
「変な男?」
「……昔、よく」
彼女は俯いた。
「……顔を見て、寄ってくる人がいました」
ガイゼルは黙った。
「……話を、聞いてくれないんです」
「……そうですか」
「……青虫の話をすると、怒るので」
「なるほど」
「……だから、眼鏡を」
ガイゼルは、静かにうなずいた。
「では、そのままで」
エルシアが顔を上げた。
「……いいんですか」
「ええ。あなたが嫌なら、外す必要はありません」
「……でも」
「私は、今のあなたが好きですから」
エルシアは動かなくなった。
「…………」
ガイゼルは微笑んだ。
「虫の話をしているときのあなたも、研究に夢中になっているあなたも、全部」
「…………」
「もちろん、眼鏡も似合っています」
エルシアは、ゆっくり顔を伏せた。
耳が赤くなっていた。
「……それは」
「はい」
「……困ります」
「どうして?」
「……胸が、変です」
ガイゼルは笑いを堪えた。
「病気でしょうか」
「……たぶん」
「医者を呼びますか」
「……いえ」
エルシアは、自分の胸に手を当てた。
「……もう少し、観察します」
ガイゼルはとうとう笑ってしまった。
その日から、エルシアは新しい研究日誌を一冊作った。
表紙には、小さな文字でこう書かれていた。
『ガイゼル様について』
第一項。
『声を聞くと、胸が速くなる』
第二項。
『近くにいると、温かい』
第三項。
『青虫の話を、最後まで聞いてくれる』
第四項。
『……もっと、一緒にいたい』
エルシアは、最後の一行を見つめた。
「……不思議」
青虫以外のことで、こんなに研究したくなるなんて。
第八章 王都からの使者
春が来た。
辺境伯領の畑は、黄金色の麦で埋め尽くされていた。
収穫量は前年の三倍。
魔獣の被害は激減。
新しい交易路も開かれ、領民たちは活気に満ちていた。
そんなある日。
王都から使者がやってきた。
使者は、かつてエルシアの研究を自分の功績として報告していた農政官だった。
「エルシア王女殿下!」
彼は城の広間で膝をついた。
「どうか! どうか王都へお戻りください!」
エルシアは、青虫の飼育箱を抱えていた。
「……どうして?」
「王国が大変なことになっております!」
「……そうですか」
「農地は荒れ、結界は崩れ、魔獣が侵入しております!」
「……そうですか」
「あなた様のお力が必要なのです!」
エルシアは首を傾げた。
「……私の?」
「はい!」
「……でも、私は」
彼女は青虫を見つめた。
「……虫しか、育てられません」
農政官は顔を引きつらせた。
「そ、その虫が必要なのです!」
「……そうですか」
「どうか、王都へ!」
エルシアは、しばらく考えた。
「……嫌です」
農政官は固まった。
「……は?」
「……嫌です」
「な、なぜ!」
エルシアは、静かに答えた。
「……焼かれるので」
農政官は口を閉じた。
エルシアは続けた。
「……あの国では、青虫を育てられません」
「も、もうそのようなことは!」
「……一度、焼かれました」
「それは……」
「……二度目は、ありません」
農政官は何も言えなくなった。
そこへ、ガイゼルが入ってきた。
「話は聞きました」
農政官が顔を上げた。
「辺境伯閣下!」
「王都の窮状は承知しています」
「では!」
「ですが、エルシア様を無理に連れ戻すことはできません」
「そんな!」
ガイゼルは静かに続けた。
「必要なら、技術協力の交渉をしましょう。ただし、研究者の権利と安全が保障されることが条件です」
農政官は慌ててうなずいた。
「も、もちろんです!」
「それと」
ガイゼルは書類を取り出した。
「こちらが、王宮による研究施設焼却の損害賠償請求書です」
農政官の顔が青ざめた。
「……損害賠償?」
「ええ。温室、設備、研究資料、希少魔虫、三年間の繁殖記録。そして、研究妨害による損失」
「そ、それは……」
「総額は、金貨八万枚です」
農政官は倒れそうになった。
金貨八万枚。
小さな城が建つほどの金額だった。
「そんな大金!」
ガイゼルは淡々と答えた。
「希少な魔虫の繁殖系統は、一度失われれば簡単には戻りません。むしろ控えめな査定です」
エルシアが、小さく口を開いた。
「……それと」
農政官がびくりとした。
「……一匹」
「は?」
「……脚の弱い子が、いました」
エルシアは俯いた。
「……三年間、育てていたんです」
誰も口を挟まなかった。
「……あの子は、もう戻りません」
農政官は、ようやく理解した。
この王女が怒っているのは、金のためではない。
名誉のためでもない。
大切な命を、踏みにじられたからだ。
「……申し訳、ございません」
エルシアは答えなかった。
ただ、飼育箱を抱きしめた。
第九章 王子の没落
王都では、クラウス王子が追い詰められていた。
食料不足。
魔獣の侵入。
貴族たちの反乱。
国民の不満。
そして、王宮の財政は破綻寸前だった。
「なぜだ!」
クラウスは執務室の机を叩いた。
「なぜ、あの虫女がいないだけで!」
宰相は、疲れ切った顔で答えた。
「殿下。エルシア王女殿下の研究は、王国の基盤を支えていたのです」
「そんなこと、聞いていない!」
「報告書は何度も提出されております」
「何?」
宰相は、分厚い書類の束を置いた。
「こちらです」
クラウスは書類をめくった。
表紙には、こう書かれていた。
『魔力循環型幼虫による農地改良計画』
次の書類。
『銀糸魔蚕の結界素材への応用』
さらに。
『王都周辺農地における魔力循環の維持について』
すべて、エルシアの署名があった。
クラウスは顔を歪めた。
「こんなもの……!」
「殿下が、虫の話は聞きたくないとおっしゃって、閲覧を拒否されたものです」
「…………」
「その結果、研究の重要性を理解する者が王宮にいなくなりました」
宰相は深く息を吐いた。
「さらに、殿下は温室を焼却なさった」
クラウスは椅子に沈み込んだ。
そのとき。
扉が開いた。
「クラウス様!」
セレスティーヌが飛び込んできた。
「わたくし、もう耐えられません!」
「何だ!」
「国民が、わたくしを偽物の聖女だと!」
彼女の周囲には、蝶が一匹もいなかった。
魔力が枯渇し、もう蝶を生み出せなくなっていたのだ。
「あなたが何とかしてくださいませ!」
「何とかしろだと!?」
クラウスは立ち上がった。
「貴様の蝶が農地を荒らしたのだろう!」
「そんな! クラウス様が、わたくしの蝶を使えと!」
「黙れ!」
二人は激しく言い争った。
かつて大広間で愛を誓った二人。
今では、互いに責任を押しつけ合うだけだった。
そして、とうとう王国議会が動いた。
クラウス王子は、王位継承権を剥奪された。
理由は、国家財産の重大な損失と、研究施設の不当な破壊。
さらに、農政官による研究成果の横領が発覚。
セレスティーヌについても、禁術による魔虫の強制変態が明らかになった。
彼女は聖女の称号を剥奪され、神殿から追放された。
クラウスは辺境の鉱山管理所へ送られた。
王族としての待遇はなく、ただの監督補佐として働くことになった。
セレスティーヌは、荒れ果てた農村の復興事業に従事するよう命じられた。
二人は、もう二度と華やかな王宮へ戻れなかった。
しかし、エルシアはその知らせを聞いても、特に喜ばなかった。
「……そうですか」
それだけだった。
彼女には、もっと大切なことがあった。
第十章 虫姫の選択
初夏。
辺境伯領に、王国から正式な使節団が訪れた。
新たに即位した国王は、クラウスの弟である第二王子だった。
彼は、兄とは違って慎重な人物だった。
エルシアに対し、正式な謝罪と賠償を申し出た。
「エルシア王女殿下。兄の愚行について、王家を代表して謝罪いたします」
エルシアは静かに頭を下げた。
「……はい」
「研究施設の損害については、全額を賠償いたします」
「……ありがとうございます」
「さらに、王都へ戻っていただけるなら、王立研究院の院長職を用意いたします」
エルシアは、しばらく黙っていた。
そして、首を横に振った。
「……戻りません」
新国王は驚かなかった。
「理由を伺っても?」
「……ここが、好きなので」
エルシアは窓の外を見た。
温室が見える。
広い畑が見える。
子どもたちが、青虫の飼育箱を持って走っている。
「……ここでは、みんなが」
彼女は、少し考えた。
「……虫を、嫌いません」
新国王は、ゆっくりうなずいた。
「そうですか」
「……でも」
エルシアは顔を上げた。
「……青虫は、分けられます」
「本当ですか!」
「……はい」
「では、ぜひ!」
「……ただし」
エルシアは、珍しく言葉を続けた。
「……研究者の名前を、消さないこと」
「もちろんです」
「……飼育施設を、勝手に壊さないこと」
「誓います」
「……虫を、焼かないこと」
「約束いたします」
エルシアは、ようやく小さくうなずいた。
「……では、協力します」
こうして、王国の復興が始まった。
エルシアは辺境伯領から魔虫の卵と飼育技術を提供した。
王国は賠償金を支払い、研究施設を再建した。
農地が回復するまでには数年かかったが、少しずつ人々の暮らしは戻っていった。
そして、エルシアの名前は大陸中に知られるようになった。
「虫姫エルシア」
かつて蔑称だったその名は、今では尊敬を込めて呼ばれていた。
しかし本人は、やはりあまり気にしていなかった。
「……名前より」
彼女は青虫を持ち上げた。
「……この子の、成長が大事です」
第十一章 青虫を愛するお姫様
ある日の午後。
エルシアは温室で、珍しい青虫の羽化を待っていた。
ガイゼルが隣に座っている。
「今日は、何が生まれるのですか?」
「……オオツノホシマユの、成虫です」
「綺麗な蝶になるのですか?」
エルシアは首を横に振った。
「……蛾です」
「蛾?」
「……はい」
「そうですか」
ガイゼルは笑った。
「私は蝶と蛾の違いも、まだよくわかりません」
エルシアは、少し考えた。
「……大丈夫です」
「何が?」
「……私も、最初は」
彼女は繭を見つめた。
「……わかりませんでした」
ガイゼルは微笑んだ。
しばらくして、繭が動き始めた。
小さな裂け目ができる。
中から、濡れた羽が覗いた。
エルシアは息を呑んだ。
「……出てきます」
「ええ」
「……頑張って」
繭の中から、一匹の蛾が姿を現した。
羽はまだ縮んでいる。
身体は濡れ、弱々しい。
だが、少しずつ羽を広げていく。
やがて、見事な銀色の羽が現れた。
ガイゼルは感嘆した。
「美しいですね」
エルシアは、じっと見つめていた。
「……はい」
「あなたは、蝶はあまり好きではないと聞きましたが」
「……はい」
「どうしてです?」
エルシアは、しばらく考えた。
「……嫌いでは、ないんです」
「ええ」
「……でも」
彼女は、小さな声で続けた。
「……青虫の方が、好きです」
「なぜ?」
「……一生懸命なので」
ガイゼルは黙って聞いていた。
「……葉を食べて」
「ええ」
「……大きくなって」
「ええ」
「……何度も、脱皮して」
エルシアは、少し微笑んだ。
「……生きているだけで、すごいんです」
ガイゼルは彼女を見つめた。
「……そうですね」
「……蝶にならなくても、好きです」
「ええ」
「……羽がなくても、綺麗じゃなくても」
エルシアは、そっと青虫の飼育箱に触れた。
「……そのままで、好きなんです」
ガイゼルは、ゆっくり彼女の手を取った。
「エルシア」
「……はい」
「私も、あなたが好きです」
エルシアは固まった。
「…………」
「眼鏡をかけていても」
「…………」
「前髪で顔を隠していても」
「…………」
「虫の話を三時間続けても」
エルシアは、少しだけ眉を下げた。
「……三時間は、長いですか」
「いいえ」
ガイゼルは笑った。
「一生聞いていたいくらいです」
エルシアは、ゆっくり顔を赤くした。
「……一生」
「ええ」
「……本当に?」
「本当に」
彼は、彼女の手を両手で包んだ。
「エルシア。私と結婚していただけませんか」
エルシアは、しばらく動かなかった。
それから、ぽつりと言った。
「……青虫も?」
ガイゼルは吹き出した。
「もちろん」
「……温室も?」
「もっと大きくしましょう」
「……研究も?」
「好きなだけ」
「……三時間、話しても?」
「毎日でも」
エルシアは、じっと彼を見つめた。
そして、初めて自分から眼鏡を外した。
長い前髪を、そっと耳にかける。
紫色の瞳が、まっすぐガイゼルを見つめた。
ガイゼルは息を呑んだ。
あまりにも、美しかった。
だが、それ以上に。
彼女が自分の意思で顔を見せてくれたことが、嬉しかった。
「……私」
エルシアは、小さく息を吸った。
「……あなたと、一緒にいたいです」
ガイゼルは微笑んだ。
「はい」
「……ずっと」
「ええ」
「……青虫が、蝶になっても」
彼女は、少し考えた。
「……私が、変わっても」
ガイゼルは、彼女の手に口づけた。
「どんなあなたでも、愛します」
エルシアは、泣きそうな顔で笑った。
それは、誰も見たことのない笑顔だった。
終章 蝶々の夢を見ない
結婚式は、初夏の晴れた日に行われた。
辺境伯領の人々が総出で準備した、盛大な式だった。
花嫁のエルシアは、銀色の髪を結い上げ、淡い緑色のドレスをまとっていた。
眼鏡は、いつもの分厚い丸眼鏡。
前髪も、少しだけ長いまま。
マーサは何度も説得した。
「姫様! せっかくの結婚式なのですから、眼鏡くらい外しましょう!」
しかしエルシアは首を横に振った。
「……これが、好きなので」
ガイゼルも笑った。
「私も、その眼鏡が好きですよ」
マーサは、とうとう諦めた。
式が始まる直前。
エルシアは温室にいた。
「姫様!」
マーサが駆け込んできた。
「何をしていらっしゃるのですか! もうすぐ式が!」
「……あ」
エルシアは、飼育箱を見つめていた。
「……羽化が」
「羽化!?」
「……始まってしまって」
マーサは頭を抱えた。
「こんなときに!」
「……あと、五分」
「五分では済まないでしょう!」
「……たぶん、七分」
「姫様!」
そこへ、ガイゼルがやってきた。
礼服をまとい、いつもより少し緊張した顔をしている。
「どうしました?」
マーサが泣きそうな顔で訴えた。
「旦那様! 姫様が、虫の羽化を見たいと!」
ガイゼルは飼育箱を覗いた。
「ああ、本当だ」
「旦那様まで!」
ガイゼルは、エルシアの隣に座った。
「どのくらいかかりそうです?」
「……七分」
「では、待ちましょう」
マーサは天井を仰いだ。
「もう! お二人とも!」
エルシアは、そっとガイゼルの袖を引いた。
「……ごめんなさい」
「何がです?」
「……結婚式なのに」
ガイゼルは笑った。
「いいんですよ」
「……でも」
「あなたが楽しそうなら、それで」
エルシアは、じっと彼を見つめた。
それから、少しだけ身体を寄せた。
「……好きです」
ガイゼルは微笑んだ。
「私もです」
「……とても」
「ええ」
「……青虫と、同じくらい」
ガイゼルは、しばらく黙った。
そして、笑った。
「それは光栄です」
エルシアは真剣な顔でうなずいた。
「……本当に、すごいことです」
「わかっています」
二人は、並んで繭を見つめた。
やがて、小さな蛾が羽を広げた。
白銀の羽。
柔らかな光。
エルシアは、静かに微笑んだ。
「……おめでとう」
その声は、とても優しかった。
ガイゼルは、彼女の手を握った。
そして二人は、少し遅れて結婚式へ向かった。
辺境伯領の人々は、誰も怒らなかった。
むしろ、事情を聞いて笑った。
「虫姫様らしい!」
「お幸せに!」
「青虫たちも、おめでとう!」
エルシアは、少し恥ずかしそうに俯いた。
けれど、ガイゼルが手を握ってくれたので、顔を上げることができた。
青虫は、いつか蝶になる。
けれど、すべての青虫が蝶になるわけではない。
蛾になるものもいる。
途中で命を終えるものもいる。
羽を持たずに生きるものもいる。
それでも、エルシアは青虫を愛していた。
美しい蝶になるからではない。
いつか立派な何かになるからでもない。
ただ、今そこにいる、小さな命が愛おしいのだ。
そして彼女自身もまた、誰かが望む美しい蝶になる必要はなかった。
分厚い眼鏡をかけたままで。
陰気で、無口で、少し変わっていて。
青虫の話を始めると、いつまでも止まらない。
そんな自分のままで、愛されてよかったのだ。
結婚式のあと。
エルシアは、新しい研究日誌を開いた。
表紙には、こう書いた。
『青虫と、ガイゼル様について』
第一項。
『どちらも、見ていると幸せになる』
第二項。
『どちらも、触れると温かい』
第三項。
『どちらも、大切にしたい』
そして、最後に。
『……でも、ガイゼル様は、青虫より少しだけ好き』
エルシアは、その一行を見つめた。
しばらく考えた。
それから、慌てて書き足した。
『※青虫には、内緒』
窓の外では、初夏の風が吹いていた。
花々の上を、美しい蝶が舞っている。
エルシアはそれを一瞥し、すぐに視線を戻した。
目の前には、小さな青虫。
丸々と太り、葉を食べている。
「……今日も、かわいい」
彼女は微笑んだ。
そして、隣で本を読んでいた夫の袖を引いた。
「……ガイゼル様」
「はい?」
「……見てください」
「何を?」
「……この子」
ガイゼルは本を閉じた。
「ええ」
「……昨日より、二ミリ大きいです」
「それはすごい」
「……でしょう?」
エルシアは、嬉しそうに笑った。
青虫を愛するお姫様は、蝶々の夢を見ない。
彼女が夢見るのは、もっと小さくて、もっと不格好で、もっと愛おしいもの。
そして、その隣には。
彼女の話を、いつまでも聞いてくれる人がいる。
それだけで、世界は十分に美しかった。
――おしまい。




