偽りの心 ※
彼からの返事を待つ事はしなかった。
両手で肩を押さえ、深いキスを仕掛ける。驚きで、わずかに開いた唇を割り舌先を侵入させれば含み切れなかった唾液が彼の顎を濡らした。
全く反応を示さない彼に焦れ自ら舌を絡めるものの、一向に何も返してくれない。空虚な瞳に心の奥底がズキンっと痛んだ。
優しくたって、好きでもない女とのキスに応えるはずがない。そんなのわかっている。でも、もう止まれない。
「ねぇ。貴方は悔しくないの? 童貞だと捨てられ、遊び慣れた男に大切な彼女を奪われた。今頃二人は何をしているのかしらね? クリスマスイブだもの。捨てた貴方の事なんて忘れて、愛し合っているのかもしれないわね。いいえ、偽りの愛を交わし合っているのかしら? だって、彼女の相手は遊び慣れた男よ。女を騙すのなんてお手のモノよね。そんなクズ男に大切な彼女を奪われたのに、貴方は指を咥えて見ているだけ。そんな弱腰だから彼女にも捨てられたのではなくって?」
「お姉さんだって、浮気相手の女に彼氏を奪われるのを指くわえて見てただけじゃないか」
「確かにその通りね。浮気相手の若い女に彼氏を奪われても、おばさんと馬鹿にされても何も言い返せなかった。馬鹿みたいよね。散々裏切られて来たのに、最後まで彼を信じようとしてたなんてね。本当馬鹿な女よ。私の恋はもう終わったの。今さら彼に縋りついたところで何も変わらない。上手く行ったところで、浮気相手が別の女に変わるだけ。でも、貴方は違うわ。まだ若い。自分に自信をつけて次に進む事だって出来るし、別れた彼女を取り戻す事だって出来る。貴方には未来がある」
私は酷い女だ。
彼の劣等感を煽り、思い通りに事を進めようとしている。彼氏に裏切られた悲しみを素直で一途な彼で埋めようとしている。彼と体を重ねたとしても、ぽっかり空いた心の穴を埋めるなんて出来ないと分かっている。でも、もう止まれない。少しでも惨めなこの状況を忘れられるのなら、彼の劣等感を煽り利用することも厭わない。
「貴方の心の奥底にあるシコリは何かしらね? クリスマスイブに彼女と来るはずだったホテルに一人で泊まって、寂しいクリスマスよね。本当なら彼女との初めての夜を過ごすつもりだったのではなくて? このまま後生大事に童貞を貫いたところで貴方は前に進めない。大好きな彼女に振られた事がトラウマになって、不能になるかもしれないわ。さて、貴方はどうするの? 私の誘いを受けて童貞を捨てるか? このまま部屋を出て行くか? 貴方が決めて」
グイっと唇を拭った彼が視線を外し、ボソッと呟く。
「お姉さんはそれで良いのかよ? 好きでもない男とsexしたって気持ち悪いだけだろ」
「好きでもない男ね。確かに貴方の事は好きではないわね。ただ、好感は持っている。素直で誠実で一途。しかも、自棄になった憐れな女を見捨てることも出来ないお人好し。元彼にはなかったモノを持っている。貴方を見ていると思い出すのよ。まだ、付き合いたての初々しかった彼をね。傷ついた心を慰めたいだけ、貴方とsexしたい理由は、ただそれだけよ。一時だけでも幸せだった頃の思い出に浸りたい」
「ひどい女……寂しさを紛らわせるために、俺を利用するのかよ」
「そうかもね。貴方の優しさに付け入り、心にポッカリ空いた穴を満たしたい。でも、貴方にとってもメリットがあるのではなくって? 彼女に童貞だって振られたんでしょ。貴方が私相手じゃ役に立たないって言うなら仕方ないけど、何の憂いもなくクソの役にも立たない童貞を捨てられるチャンスじゃない。後は好きにすれば良い。元彼女を追いかけるも良し、新しい出会いを求めるも良し。綺麗さっぱり捨て去って、トラウマにもならず次のステップに進める。良いこと尽くめじゃないかしら」
未だに顔を逸らす彼に馬乗りになり、ネクタイに手をかけ解いていく。抵抗されないことを良しとして、シャツのボタンも外し、肌蹴れば見事な腹筋が現れた。わずかに開いたシャツから覗く素肌は、部屋の間接照明に照らされ、仄かな色気を醸し出す。ゴクリっと嚥下する喉の音が、直接脳内に響き妙な期待を抱いていることを自覚させられた。
「……綺麗な肌」
わずかに開いたシャツの間に指を滑らせ、胸元から割れた腹筋をゆっくりとなぞれば、感じてしまったのかピクッと震える肌の動きが指先に伝わった。
「ふふっ、男の人でもココ、感じるって知ってた?」
肌の上をゆっくりと上へ上へと指先を滑らせていく。わずかに自己主張を始めた突起を無視し、さらに上へ上へと指先を動かす。鎖骨のくぼみに指先を滑らせ爪を立てると同時に首筋に噛みついた。
「ちょっ!? やめっ……」
歯を立てた首筋をなだめるように舐め上げれば、くぐもった声が聴こえてくる。
まだ抵抗しないのね。本当、お人好し……
童貞の彼は女に襲われたことなどないのだろう。愛する彼女と幸せな一夜を夢見ていただろうに、名前も知らない女に犯される。チクリと胸を痛める罪悪感に蓋をして、彼を支配している優越感に浸る。
いったい彼はどんな顔をしている?
好きでもない女に支配され翻弄されてなお、彼の優しさが、ひどい女を突き離すことを許さない。
様々な葛藤がせめぎ合い、女に支配される屈辱に顔を歪めているのかしらね。
長い前髪と眼鏡で隠された彼の素顔を見たいという欲求が抑えられない。サッと眼鏡を取り去り見下ろせば、長い前髪の間から切れ長の瞳に見据えられた。
わずかに上気した頬と、赤く染まった目元が壮絶な色香を放つ。予想外の色香に当てられ目の前がクラクラする。
まずいわね。この子、化けるわ……
襲っているのは私のはずなのに、襲われている感覚になるのは何故だろう?
舌舐めずりして待つ猛禽類にロックオンされた気分になり、深部が疼き溢れ出した蜜が下着を濡らしていく。初めての感覚に内心焦り出した私は、慌てて彼から目を逸らすことしか出来なかった。
*
目を覚ませば隣はもぬけの殻だった。窓から差し込む陽の光が身体を包み、少しだけ気分が晴れるような気がした。
最後まで彼の名前を知ることも、私の名を告げることもなかった。一夜のアバンチュールは心に苦い想いだけを残し終わりを迎えた。
純粋な彼を傷つけた罪悪感と、騙してまで欲した幸福感を得られぬ絶望を胸に、三十歳を迎えた朝は過ぎていく。
彼とはもう会うことはないだろう……




