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優しい温もり

「はい。どうぞ」


 差し出されたタオルを受け取ると、ポタポタと雫が落ちる髪を無造作に拭き、雨に濡れたコートをハンガーに掛け、彼に手渡す。


「ワンピースはあまり濡れてないようで良かった。そこのソファで待っていてください。何か飲み物持って来ますから」


 部屋から出て行く彼を見送り、小さなため息を溢す。


 何やってんだろ、私。


 誕生日に彼氏に振られたからって、自棄やけになって他人様に迷惑かけて、本当馬鹿みたい。


 見知らぬ男に連れられて来たのは繁華街の路地裏にある一軒のBARだった。従業員専用の裏口から入り、バックヤードの休憩室へと来た訳だが。


『カチャ』


 扉を開ける音に項垂うなだれていた顔を上げると、目の前に湯気が立つマグカップが置かれた。


「ホットミルクですけど飲めますか?」


 コクンと頷き、マグカップを手に取り口をつければ甘いミルクの味と温かさが口内に広がり、仄かなブランデーの香りが鼻腔をくすぐる。冷え切った身体にしみ渡る温かさが、傷ついた心まで癒やしてくれるようだった。


「少し落ち着いたら帰った方がいい。タクシー呼びますので声かけてください。店内のカウンターで軽く飲んでますので」


「まっ、待って! お願い。一人にしないで」


 面倒臭い女だと自分でも思う。自棄になって、迷惑をかけて、なのに見知らぬ男の優しさにすがろうとしている。


「……分かりました。少し店内で飲みますか? 今の時間なら、ほとんど客もいないと思うし、一人でいるより気がまぎれるでしょ」


 彼の優しさが、ただただ嬉しかった。





 優しいジャズが流れる店内は、適度に照明が落とされたテーブル席とバーテンダーが立つカウンター席に別れていた。カウンター席とテーブル席は、クリスタルで出来たカーテンのオブジェで仕切られ、個々の空間として独立した造りとなっている。


 イチャつくカップルで埋め尽くされたテーブル席が見えない造りは、カウンターの端に座る今の私には、単純に有り難かった。


「何飲みますか?」


 隣に座った彼に問いかけられるが、何も浮かばない。


「とにかく酔いたいの。強いお酒がいいわ」


「やめた方がいい。ヤケ酒なんて悪酔いするだけだ」


「貴方には関係ないでしょ。そうねウィスキーロックでちょうだい」


 親切にしてくれた人にも悪態しかつけない自分が嫌になる。


「……ごめんなさい」


「いえ……」


 それっきり沈黙が落ちる私達を気遣ってか、一杯のショートグラスが目の前に差し出された。


「メリーウィドーです」


 バーテンダーに声をかけられ、昔の事を想い出す。


 そういえば彼とも馴染みのバーによく通った。蘊蓄うんちくを話したがる彼から、二人でお酒を飲みながらカクテル言葉を教えてもらったっけ。


 お酒が好きだった彼に近づきたくて、色々とカクテル言葉を調べて覚えたものだ。


 苦い想い出に変わるのなんて一瞬だ。


『メリー・ウィドー』


 もう一度素敵な恋をか……


 この先、恋なんて出来るのだろうか?


 ショートグラスに入った赤いカクテルが心に刺さった矢から滴る血の様で胸がズキズキと痛む。


 もう恋なんてしない。


 一気に煽ったカクテルの味は、わからない。ただ焼けつくような喉の痛みが一瞬でも心の痛みを消し去ってくれる。


「クリスマスイブにヤケ酒に走る女の話なんて聞きたくもないと思う。ただ、聞いてくれるだけでいいの。ダメかな?」


「貴方が話したいのなら話せばいい。俺は聞く事しか出来ないけど……」


「ありがとう。私ね、今日誕生日なんだ。クリスマスイブが誕生日って昔から良い思い出なんてないけど、本当今日は最悪だった。ホテルで、彼と待ち合わせてレストランでディナーをして、きっとそのホテルに彼と一緒に泊まる筈だった。でもね別れちゃったのよ。現れた彼は若い可愛らしい女を連れていた。それはもうお肌ピチピチの可愛らしい女よ。直ぐ浮気相手だって思った。でも、彼を信じたかった。十年も付き合って、やっと三十歳の誕生日にプロポーズしてくれる気になったんだって思っていたんだもの。人生で最高の誕生日になると本気で思ってたのよ。まさか、誕生日当日に浮気相手を伴って、別れを告げるなんて思わないじゃない。だから信じたかった。でも振られちゃった。馬鹿みたいよね……」


 ひと筋涙が頬を伝う。


 別れを告げられた時は泣けなかったのに、なんで今更涙が出てくるのだろうか。


 後から後から流れ出した涙に耐えきれず、カウンターに突っ伏した私は嗚咽を堪えるのに必死だった。


「彼が浮気性だって、ずっと気づいてたのに。女の影があった事なんて一度や二度じゃ無いのにね。でも、信じたかった。初めての彼で、何もかも彼が初めてで。全ての想い出が愛しくて……」


 彼の事が大好きだった。


 十年間の想い出が走馬灯の様に脳裏を流れていく。


 真っ赤な顔をして告白してくれた日。


 公園デートの帰り道、初めてキスをした。優しく触れるだけのキスが物足りなくて抱きついてしまったこと。


 彼の家での初めてのお泊まり。緊張でガチガチの私を気遣い、何もせず抱き締めて眠ってくれたこと。


 二人で過ごす初めてのクリスマス。誕生日プレゼントにダイヤのネックレスを贈ってくれた。『頑張っちゃった』と笑う彼が愛しくて堪らなかった。


 初めて結ばれた夜。


 喧嘩も沢山した。何回も彼が信じられなくなった。何度も別れようと思った。


 でも別れられなかった。


 本気で愛していたから……


「……っ!?」


 肩を震わせ泣き続ける私の頭に置かれた温もり。


「泣きたいだけ泣けばいい」


 ただ一言告げられた言葉が心に染みる。


 血を流す心に突き刺さった矢が涙と一緒に流れていく。

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