吊り橋効果なのか
重みが消えた身体を起こすと、地面に倒れた元彼を見下ろす橘の後ろ姿が目に入った。なぜここに橘がいるのかという疑問はさておき、彼が襲われていた私を助けてくれたという事だけは分かる。
罵声を浴びせつつ元彼が逃げていく光景を見つめ、助かったという安堵感から、涙が次から次へと落ちていった。
ゆっくりと振り返った橘が、私を見つけ駆け寄って来てくれる。
「鈴香大丈夫か?」
心配気に覗き込まれた瞳と涙で滲んだ瞳がかち合い、絡み合う。優しく頬を撫でていく指先の感触に泣いていたことを思い出した。
「ありがとう……」
その一言を紡ぐだけで精一杯だった。力強い腕に抱き寄せられ、その温かさに胸が熱くなる。子供のように泣きじゃくる私を何も言わず、橘はいつまでも抱き締めていてくれた。
*
「落ち着いたか?」
「えぇ。ありがとう」
やっと涙もひき、彼の胸に手を当て少し距離をとる。わずかに離れた温もりを寂しく感じていると、頭上から話しかけられた。
「ベンチに移動出来そう?」
コクンと頷くのを確認した橘の手を借り、立ち上がると近くのベンチへと移動する。変なところに力が入ってしまっていたのか至るところに痛みが走る。身体の痛みでフラつけば、力強い腕がしっかりと支えてくれた。
安心感が増していく。
ベンチに座らされ、隣に橘が座る。わずかに開いた距離に一抹の寂しさが過ぎるが気づかない振りをした。
立場とはもう後輩と先輩の関係でしかない。これ以上、元彼とのゴタゴタに巻き込むわけにはいかない。
「ごめんなさい。みっともないところを見せて。今回も助けてもらって本当にありがとう。前回の分も合わせて必ずお礼はするから」
痛む身体を我慢し立ち上がると、深々と頭を下げた。
「ねぇ。さっきの男って元彼?」
「えっ!? 何で知って……」
予想外の言葉に思わず下げていた頭を上げると私を見上げる真剣な眼差しと視線がかち合う。
橘と元彼に面識はないはずだ。彼と初めて出会ったのも元彼と別れた後だし、私ですら今日久々に元彼を見たのだから。
「やっぱり元彼か……。さっきのって、もちろん合意の上じゃないよね?」
「あ、当たり前じゃない!! アレのどこが合意の上に見えるのよ!」
「だよなぁ。合意だったら態々《わざわざ》野外でやらないわな。変な趣味がない限り」
「ちょっと! そんな趣味あるわけないじゃない!!」
「どうだかぁ~? 確かアレも野外って言えば野外か。ミニシアター……」
「なっ! アンタねぇ!!」
「調子戻ってきたみたいだな」
「――えっ!?」
悪戯が成功した子供のような笑顔を見て気づく。橘は、あえてこの重苦しい空気をぶち壊してくれたのだ。優しくするでもなく、慰さめるのでもなく私の中の怒りを煽ることで、元彼に植えつけられた恐怖心を払拭してくれた。
『アンタは元彼に負けるような弱い女じゃないだろう』と鼓舞されている錯覚すらする。私の性格をよく理解していなければ、こんな芸当出来ない。
高鳴り出した心臓の音が心地良く頭に響く。
「ありがと! なんか元気出た」
「そっか、なら良かった。じゃあ、あの男と何があったか聞いてもいいよな?」
「……アンタねぇ。分かったわよ」
橘に促され、ポツポツと元彼のことを話し出した。一ヶ月前くらいに突然メールが送られて来て、ヨリを戻したいと言われている事。無視をし続けた結果、メールの内容が徐々に脅迫めいた物へと変わってきた事。そして、待ち伏せされて口論になり、襲われた事。
「あちゃぁ。完全にストーカー化してないか? この事、誰かに相談したのか?」
「してないわ。無視してたらいつか諦めるかと思ってたから」
「いや、これは諦めないだろ。コレ見てたら執念感じるもん」
元彼の名前で埋め尽くされた着信履歴を見た橘が、顔を歪め苦笑いを溢している。
「私も考えが甘かった。まさか、待ち伏せされるとは思っていなくて。付き合っていた時は、私に執着するようなタイプじゃなかったのよ。実際、何度も浮気されていたしね。最後なんて、何ヶ月も放置されていたわよ。電話しても、メールしても忙しいの一言だけ。そんな男よ、すぐ諦めると思っていたのに……。えっ? 何、私なんか変なこと言った?」
隣に座った橘が盛大なため息をつき、心底呆れたと言わんばかりの顔をして、こちらを見ている。
「本当、何も分かってないのなぁ……。男って生き物は簡単に手に入るモノには興味を示さない。まぁ、言い換えれば釣った魚にはエサをやらんとも言うか」
「えっ? そういうモノなの?」
「あぁ。元彼は浮気性だったんだろ? その傾向は顕著だ。何度浮気しようと、最後には受け入れてくれる鈴香の存在は、奴にとったら水槽で飼われている魚と同じ。極限まで放置していても逃げられる心配がない都合の良い女だった」
都合が良い女……
心当たりがあり過ぎて何も言えない。
「ただ、浮気を繰り返す内に欲が出たんだろうな。鈴香は、どこまでなら許してくれるのかって。本心では別れるつもりなんて無かったんだろうよ。別れた後、直ぐに縋りついて来ると思っていたんじゃないかな」
「確かに、今までの私ならヨリを戻したいと縋っていたかもしれない……」
橘と出逢っていなければ。
「しかし、実際はいつまで経っても連絡すら来ない。思惑は外れ、我慢の限界が来て自らメールをした。きっと直ぐにヨリを戻せると思っていた。何度浮気しても許してくれる鈴香なんだから大丈夫だと。それすら叶わなかった時、豹変したんだろうな。自分の手の内にいた女だからこそ、見捨てられた時の衝撃は計り知れない。ストーカー化してもおかしくないと思うぞ。実際、完全にストーカー化しているしなぁ、鈴香の元彼」
「左様ですか……」
にわかに信じられない話だったが、実際に待ち伏せされ、襲われた事実が橘の話が真実だと物語っていた。
「あの様子だと、諦める気はないと思うぞ。会社も家も奴に知られているんだよな?」
「えぇ……」
「しばらく誰かの家に身を寄せるとか出来ないのか? 実家とか親戚とか友達とか」
「無理ね。実家は遠いし、友達のところも長くは無理でしょ。今後、引っ越しを考えるにしても直ぐには出来ないし、ホテル住まいって訳にもね。しばらく、行き帰りは気をつけるから大丈夫よ」
元彼の今後の出方が分からないだけに怖いが仕方ない。出来るだけ人通りの少ない道を避けて、夜遅くなる時はタクシーで帰るしかないか。
「……じゃあ、俺の家に来ないか?」
「はっ?? 橘君の家? あり得ないでしょう!! 貴方が私に何したか忘れたの!?」
「いや、ちゃんと覚えている。下心がないとは言わない。チャンスだとも思っている。恋人契約を解消した日、最後に言った事は覚えている? 鈴香が俺を嫌っているのも理解している。でも、好きなんだ。今でも愛している。だから、最後にチャンスが欲しい。鈴香、俺に挽回するチャンスをくれないか?」
「無理よ。貴方の家で暮らすなんて」
「元彼の様子じゃ、絶対にまた待ち伏せされる。家を知られている時点で、襲われる危険は高い。俺の家なら奴には知られていないし、万が一知られても男と一緒に暮らしていると分かれば諦めるかもしれない。絶対に鈴香の嫌がることはしない。だから、俺のところに来い」
わずかに開いていた距離が一気に縮まり、彼の腕の中へと捕われる。耳から伝わる彼の心音と自分の心臓の拍動が重なり、眩暈にも似た高揚感に支配されてしまう。
「絶対に守るから……」
争う術は残っていなかった。
元彼とのやり取りで疲弊していた脳は考える事を放棄し、彼の言うがままに従ってしまう。耳元でささやかれる言葉に、ただ頷いていた。




