朦朧とする意識の中で
静かなフロア内にカタカタとクリック音が響く。二十一時を回った営業部のフロアには、私を除いて誰もいない。一向に進まないパソコン画面を見つめ、深いため息を溢した。
こんな失敗、どうかしている。
課長に頼まれていた資料のデータ化を数日前からこなし、夕方には終わる予定だった。膨大な紙資料を先方と共有するためのデータ化。本来なら、数カ所にバックアップを取ってしかるべきところを怠った。しかも最悪な事に、データを転送する際にエラーが起きたのだ。結局、データは消し飛び、バックアップも取らなかった結果、苦労して作った資料は一部を残し跡形もなく消し去った。
明日が先方との商談だなんて、本当についていない。
そもそも、データのバックアップなど基本中の基本だ。それを怠るほど集中力が切れているなんて、社会人としても終わっている。
課長にも心配されて何やってんだろ、私。
昔から変わらないわね……
同期で入社した時からの腐れ縁。昔から世話焼きで部下が困っていれば、そっと手を差し伸べられる有能な人。同期の中では、ずば抜けて成績の良い営業マンで、会社の期待通り売り上げを伸ばし、異例の早さで課長に就任した。仕事も早く、卒がない。部下の扱いも上手く、彼が課長に就任してからの営業部の売り上げは右肩上がりに続いている。沢山の仕事を抱えているのに、ミスの尻拭いまでさせる訳にはいかない。
今夜、徹夜してでも仕上げねばならない。気合いを入れ直し画面へと向かう。
「二十三時か……」
時計の針を確認し、思うように仕事が進んでいない事を痛感する。
思えば朝から頭が痛く、身体も怠かった。寝られない日が続いていたせいだと頭痛薬を飲んで出勤したが、日中も調子が悪く薬で誤魔化しながら働いていた。それが今になって、さらに悪化して来ているのも分かる。
これでは、朝までに間に合うかも不安になってくる。
引き出しから頭痛薬を取出し、ペットボトルの水で流し込む。
眠い……
緊張の糸が切れたせいで、急に襲ってきた眠気を振り払うように扉へと向かった。
缶コーヒーを買って来よう。ブラックでも飲めば少しは目が醒めるでしょ。
フラつきながら扉へと向かいドアノブに手を掛けた瞬間、戸が開き前へと倒れ込んでしまった。
「やっぱり、ここにいた」
耳に心地良い少し低めの声に、グリーンノートとかすかに香るムスクの匂い、そして背中に回された腕の強さ。顔を見なくても、目の前の男が誰か分かってしまうくらいには、慣らされてしまった身体が恨めしい。
「貴方に構っていられるほど暇じゃないの。今日だけはお願いだから帰って」
「酷い顔をしている。何回も電話しても出ねぇし、今日の事もあったから、まだ会社かもって。仕事終わってないんだろう? データ寄越せ」
「はぁ!? 何言ってんの?」
「手伝うって言ってんの。一人でやるより、二人でやった方が効率がいいだろ」
「誰がアンタなんかに手伝って貰うもんですか!!」
誰のせいでこうなったと思ってんのよ!
気紛れに呼び出されて、悪戯に触られて、かと思えば普通の恋人同士がするようなデートをしてみたり。暇つぶしのおもちゃに、優しくなんてしないで欲しい。言動や行動に振り回され、気づいたら奴の事を考えている。こんなに心が乱されるなんて今までなかった。
怒り、喜び、悲しみ、色々な感情に振り回されることもなかったのに。
奴の腕に抱かれているのも嫌でめちゃくちゃに暴れる。
「落ち着けって。アンタが俺を嫌っているのも分かっている。ただ、ずっと具合が悪かったんじゃないのか? 朝から様子がおかしかった。そんな状態で仕事を続けた所でミスが増えるだけだ」
「貴方には関係ないでしょ!! 残業しているのも、私が初歩的なミスを冒したせいで、貴方が手伝う義理はない。自分のミスの尻拭いくらい自分でするわ! 具合が悪かろうと、効率が悪かろうが一人でやるわよ! だから、帰って!!!!」
「――俺の所為だろうが。最近、ずっと眠れていないだろ。メイクで隠しているけど、薄ら隈が見えている。アンタを脅して、気紛れに呼び出して、弄んでいる自覚はある。仕事に支障が出るほど追いつめるつもりはなかった。今さらだけど。ただ、アンタといる時間が楽しくて、心地良くて、気づいたらずっとアンタの事を考えているんだ。食事していても、寝ていても、仕事していても、四六時中思い出すのはアンタで。他の奴と遊んでいても楽しくないんだよ。だから、様子がおかしくなって行くのに気づいていながら、アンタを独占することを止められなかった。ごめん……」
何よそれ……
「……身勝手過ぎる。私の事を四六時中考えていた? 一緒に居る時間が楽しくて独占したかった? 笑わせんな!!!! 貴方にとって私はいったい何なのよ。程のいいオモチャと一緒でしょうが!! 貴方の周りにいる都合の良い女達と変わらない。ただ違うのは、貴方に媚びへつらうか、しないかの違いだけ。物珍しかっただけでしょ。女にモテモテのお前に、反抗する女なんて、今までいなかったでしょうしね。私を独占したかったのも自尊心を満たしたいだけ。そこに愛情なんて一切ない。もう満足でしょ。私を解放して! もう、私の心を乱すのはやめて!!!!」
渾身の力を込め奴を突き飛ばした反動で倒れそうになる。
マズい……
どうにか側の机に手をつくが、叫んだせいでフラつきが増す。頭の中でガンガンと鳴り響く拍動に痛みが増し、床がグニャグニャと波打ち、その場に崩折れてしまった。
「それだけは出来ない。身勝手だろうと鈴香を手放すなんて出来ない」
存在を確かめるように抱き締められた腕の力が強まる。
涙が溢れて止まらない。
「もぅ、いや……、私を解放して……」
身体に感じた浮遊感を最後に、私の意識は暗転した。




