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優しいキス ※

 優しいキスなんて、しないでよ……

 涙の跡をなぞるように降り注ぐキスの雨に、冷え切った心が溶かされていく。闇に包まれた室内と、滲んだ視界では、橘の顔すらはっきりとは見えない。しかし、黒く染められたシーツから香るグリーンノートと石鹸の香りが、この場所が橘のベッドだということを知らしめていた。

 クラブから連れ出されて、タクシーに乗ってなお涙が止まらない私の背を、橘はずっと撫で続けていた。安心させるかのように撫で続ける奴の手に、ますます涙は止まらなくなった。

 全て、橘が悪いのに……

 今さら、優しくなんてしないで欲しい。

 心をかき乱さないで。

 そんな私の想いは、啄むような口づけを繰り返す奴の唇に、唇を塞がれ霧散していく。スッと忍び込んできた舌に軽く歯列をノックされ、反射的に迎え入れてしまう。その行為が、あまりに優しく、凍えきった心が熱くなった。

 口腔内を這う舌は、震える私の舌を捉え、吸う。痺れるような快感が背筋を駆け抜け、心に火を灯す。含みきれなかった唾液があふれ、首筋を落ちていく感触でさえ、新たな快感を生み、灯火が大きくなった。

 わからない、わからない。なぜなの――

 無理矢理、身体を重ねた時のような性急な愛撫を施されているわけではないのに、身体が疼いて仕方がない。緩慢とも思えるほど優しい手つきで煽られる官能は、身体の奥底の(ほむら)をも燃え上がらせる。しかし、貞操の危機に陥ったクラブでの出来事は、心に大きな傷を残していた。知らない男に襲われそうになった恐怖が、喉元を競り上がり、恐怖でガチガチと歯が鳴る。


「やめて……やめて……」


 うわ言のように拒絶の言葉を繰り返す私の身体が強い力で抱きしめられる。そして、錯乱した私を宥めるように頭を撫でられ、徐々に落ち着きを取り戻した私の耳に、切なく震える橘の声が届いた。


「――ごめん。怖い思いをさせた」


 絞り出すように言われた謝罪の言葉が心を震わす。

 今さら謝られたところで、許せるものではない。それなのに、震える声で謝罪を口にする橘は、まるで小さな子供のように頼りなく、弱々しく見える。傍若無人な態度で、私を振り回す暴君は、もうそこには、いなかった。

 背中へと回された腕が、すがりつくようにキュッと強まる。それに呼応するかのように、私の心が切なさでキュッと痛んだ。

 母性本能だったのか、無意識に奴の背をポンポンとあやすように叩いていた。


「……鈴香、ごめん」


 まるで道端に捨てられた子犬のような不安げな瞳に私が写る。

 腹黒い橘のことだ。こんな弱々しい態度でさえ、演技なのかもしれない。頭の片隅では、『奴を信じるな』と警報が鳴っている。でも、もう抗えない。


「ふぅ…あぁ……あぁぁ…………」


 痛みを凌駕する快感。快感が大きくなればなるほど、私の口から漏れる快感を告げる声も甘くなっていく。しかし、橘は決して己の欲を優先することはしなかった。いつもの橘とのSexとは明らかに違う気遣いに、私の心を支配していた恐怖が霧散して消える。そして、恐怖が消え去れば、心の中で膨らみ続ける温かな想いを無視することも出来なくなった。

 頭が混乱する。

 なんで、優しくなんてするのよ。

 いつもみたいに、弄んで、飽きたら捨てられるおもちゃみたいに扱えばいい。橘の優しすぎる気遣いなんていらない。

 酷くされた方が、よっぽど楽……


「……もう、い、いから……きて――」


 息を飲んだ橘は、私の最後の言葉を奪った。かぶりつくように唇を重ねられた次の瞬間には、私の口内を縦横無尽に舌が動き回っていた。歯列をこじ開け、舌を絡め、吸われる。呼吸まで奪われるかのような激しい口淫に、脳は酩酊し、何も考えられなくなる。

 あぁぁ、これでいい。これで、いいのよ……

 もう、何も考えたくない……


「――どうして、上手く行か、ない……くそっ……鈴香……」


 痛いくらいの快感を逃すため、橘の背に爪を立てれば、奴の口からも激しいうめき声が上がった。

 お互いに限界が近いことはわかっていた。


「――鈴香、好きだ……好きなんだ……」


 陸に打ち上げられた魚のようにパクパクと口を広げ激しい呼吸を繰り返す私の耳に、橘の言葉は届かない。顔中に降り注ぐ啄むようなキスの雨を感じながら、瞳を閉じた私の意識は深淵へと落ちた。

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