誘い
橘真紘に一方的な恋人契約を結ばれてから数週間、新人歓迎会の夜を最後に奴からのアクションはピタっと止んだ。新人と言えども、ひとり立ちしたばかりの奴は何かと忙しい。異例の早さで大口の契約を取ってきたばかりに、周りからの期待値も大きい。しかも、サポート役が三十路のベテランから、入社して二年のひよっ子に変われば、仕事の効率も大幅に下がる。はっきり言って私に構っている余裕などないのが現状だろう。
このまま私の存在など忘れ去ってくれないだろうか。
いっその事、あのひよっ子ちゃんを彼女にしたらいいのに。ひよっ子ちゃんこと『近藤麻里奈』ちゃんは、入社二年目の営業部のサポート役だ。肩までのフワフワの髪に、クリっとしたまん丸な瞳の可愛らしい女の子。少し抜けている所もあるが、仕事は真面目で比較的要領も良い。人当たりも良く、明るい性格で周りの同僚からの評判も良い子だ。今までは、私と同期の営業マンのサポート役をしていたが、仕事振りを評価され、今年度から新人営業マンのサポート役に移る事が決まっていた。
今も、私の席から丸見えの打ち合わせブースで、橘と麻里奈ちゃんは顔を見合わせ、仕事の打ち合わせをしている真っ最中だ。
ほんのり赤に染まった麻里奈ちゃんの頬を見れば、彼女も橘に並々ならぬ想いを寄せているのはわかる。ただ、奴の最低なクズ男加減を知っているだけに、顔も性格も良い彼女が奴の毒牙に掛かるのを見過ごして良いものかとも思う。
顔が良いだけの最低男。
クリスマスイブの苦い想い出が脳裏をかすめ、振り切るように目線をパソコン画面へと戻す。
奴に弱味を握られてから、会社内でも落ち着かない。例の写真の存在が頭から離れず、社内で奴を見かける度、アイツと目が合う度に駆け抜ける緊張感が私を落ち着かなくさせていた。
充電器に繋いでいたスマホが震える。
メールの通知表示を確認し、中を開ければ『橘真紘』の文字を見つけ、眉間にシワが寄る。
恋人契約を交わしたあの夜から数日後、突然入った奴からのメール。
『二人だけの連絡手段が必要でしょ。拒否すれば、社内の共有メールへ連絡しますよ』
知らぬ間にアドレスを取得された事にも腹が立ったが、奴との関係を社内に言いふらされる恐怖に負けた。
奴の脅しに屈せざる負えない状況に追い込まれてしまった自分自身が一番許せないが、過去の誤ちを今更悔いたところで何も変わらないのが現実だった。
『仕事終わりに、A会議室で待っています。逃げても無駄だということをお忘れなく』
文面を見て、眉間のシワがさらに深くなる。
社内では、仕事以外の接触はしないって約束はどうしたのよ‼︎
いったいどんな要求をされることやら……
暗澹たる気持ちのままスマホの画面を閉じる。
何かイレギュラーな事件でも起きないかしら。
奴の脅しをスッポかせるほどの残業指示を心待ちにしている自分に苦笑を漏らした。
*
「逃げずにちゃんと来たね。まぁ、自分の立場をよく理解している鈴香が逃げるわけないよね」
スマホを手に持ち、真っ黒な画面をこちらに見せ振る奴に殺意を覚える。
「社内では仕事以外で接触しないって約束はどうしたのよ!」
「あぁ、あれ。就業時間外は別でしょ。それとも不特定多数が見ている会社の近くのレストランが良かった? あっという間に噂が広がると思うけど。橘君と冬野さんが付き合ってるらしいよってね。それでも良かったの?」
あぁぁ、揚げ足取りやがって!
呼び出された会議室に入ると、照明を落とした室内の窓に背をつけ、こちらを見据える奴が待っていた。
「それより鍵かけないの? いつ誰が入って来るか分からないけど……。俺は別に構わないけどね。鈴香との関係がバレても」
ゆっくり近づいて来た奴を見て後退るも、直ぐに腕の中に捕らわれてしまう。
「ちょっ、離し……」
距離を取るため突っぱねた手を掴まれ、離れた分だけ引き寄せられ、唇が重なる。スルッと入ってきた舌に舌を絡められキスが深くなっていく。
静かな部屋に響く淫靡な音に落ちかけた意識が、奴の言葉で一気に浮上する。
「こんなところ見られたら言い訳も出来なくなるねぇ」
窓から差し込む夕陽を背に、奴の綺麗な顔が歪む。まるで、弱った獲物をいたぶり、楽しんでいるかのような醜悪な笑みが心に突き刺さる。
私の存在は退屈を紛らわせるおもちゃと一緒。
得体の知れない悲しみが一瞬過り、ドキリっと心臓を震わせた。
「離してよ!!」
パッと離れた拘束に、何故か心が軋む。そんな意味不明な感情に気づかない振りをし、踵を返す。
カチャっと、鍵を回す音が妙に頭に響き落ち着かない。
「用って何?」
「彼氏に向かって素っ気ないんじゃない」
「彼氏って……、脅されてなきゃ、誰がお前の彼女になんかなるモノですか」
「ははっ。まぁ、いいや。それよりも俺からの連絡がなくて寂しかった? 流石にここのところ忙しくてさ、連絡する余裕もなかった。やっぱりアンタ凄いよ。仕事の幅広すぎだろ。近藤さんも出来る方なんだろうけど、アンタと比べちゃうとさ雲泥の差だよ」
まぁ、働き出して二年の子と一緒にされても困るのだが、私に対する奴からの好評価に内心驚いていた。どこまでも性格捻くれたクズ男かと思っていたが、そうでもないようだ。
案外素直なところもあるのね。
気恥ずかしいような、こそばゆいような感覚に襲われ背中がムズムズする。
「そんな事、どうだっていいわ。それより呼び出した理由は何よ」
「そう焦るなって。せっかく久々に二人きりになれたんだし、部屋に鍵もかかってる事だしさぁ。ねぇ……、子供じゃないんだから、分かるよね?」
奴の雰囲気に飲まれ、後ずさった私の背が壁にぶつかる。
逃げ場のない状況に早鐘を打つ心臓の音が頭の中でガンガンと鳴り響き、いつの間にか目の前に迫った奴の腕に囚われていた。
「しゃ、社内ではしないって約束は!!」
「ふふっ、何? 期待してんの? 俺、別に何も言ってないけど」
揶揄われたの?
クツクツと目の前で笑う奴の顔を引っ叩きたくなるが、拳を握りグッと堪える。
怒りに任せて手を出したら、奴の思う壺だ。
冷静に冷静に……
「橘君、話がないなら帰ってもいいかしら? 私、疲れているの。一日、大忙しだったのよ。お子様の遊びに付き合えるほどの体力は残っていないわ」
目の前で笑う奴の瞳を見据え言ってやる。
「さっさと退いてくれるかしら?」
「本当、可愛くない。その言葉がどれだけ男の欲を煽るか分かって言ってんなら、アンタはとんだ悪女だ」
「えっ!? 何言って……」
「……無自覚かよ。はぁぁ……、なんか冷めたわ。じゃ、また」
離れていく熱に、虚をつかれ呆然と立ちつくす。『バタン』と扉が閉まる音に、我に返ると真っ暗な部屋に一人取り残されていた。
何だったのよぉ……
結局、奴は何をしたかったのだろうか?
奴の意味不明な行動に振り回され苦い想いだけが胸に残る。
「所詮、私は暇潰しのおもちゃ」
真っ暗な部屋に一人、壁に寄り掛かり深いため息を溢す。ポケットで震えるバイブ音にスマホを取り出し画面を確認すれば眉間に皺がよる。
『今度の日曜日、デートしよ❤︎ 拒否権なしだからな』
最後に必ず入る脅しに苦笑が漏れる。
今さらデートって、いったい何を企んでいるのやら。
深い深いため息を吐き出し、真っ暗な部屋を後にした。




