第十話 ―東京芸術劇場 ― 戦わない表現
石造りの建物だった。
派手な看板も、
呼び込みの声もない。
それなのに、
エリシア・グランフェルトは、
この建物の前で自然と背筋を伸ばしていた。
「……ここは」
「東京芸術劇場です」
男は、少しだけ声を落として言う。
「戦場じゃないけど……
たぶん、あなたが一番理解しにくい場所」
エリシアは、
その言葉に小さく頷いた。
中は、静かだった。
人はいる。
だが、騒がない。
誰も剣を帯びていないのに、
どこか“臨戦”に似た緊張が漂っている。
「……開戦前の空気だな」
「まあ……
当たらずとも遠からずです」
席に座る。
照明が落ちる。
そして――
何も起こらない、数秒。
その沈黙に、
エリシアは息を詰めた。
(……何だ?
敵か?
合図は?)
だが、
次の瞬間。
音が、流れ込んできた。
剣戟ではない。
魔法でもない。
弦が震え、
空気が揺れ、
胸の奥を直接撫でるような音。
「……」
エリシアは、
言葉を失った。
攻撃ではないため、
防御もできない。
旋律は、
心の隙間に入り込み、
過去を、記憶を、
勝手に引きずり出す。
訓練場。
初陣。
敗北。
守れなかった背中。
誰も、
それを責めていないのに。
「……なぜ……」
喉が、詰まった。
舞台では、
人が語っていた。
叫ばない。
斬らない。
血も流れない。
それでも――
苦悩が、
後悔が、
願いが、
はっきりと伝わってくる。
(……伝わる)
剣を振るわなくても。
勝敗を決めなくても。
感情は、
ここまで届く。
エリシアは、
拳を握った。
(私は……
どれほど剣に頼っていた?)
頬に、
熱いものが伝った。
驚いて、
触れる。
「……水?」
男が、
気づいたように視線を向ける。
だが、
何も言わない。
ただ、
そっと前を向いたままだ。
エリシアは、
それに救われた。
涙は、
敗北ではない。
ここでは。
幕が下り、
照明が戻る。
拍手。
剣を打ち鳴らす代わりの、
敬意の音。
エリシアも、
遅れて手を叩いた。
ぎこちなく。
だが、確かに。
外に出ると、
池袋の夜は、
いつも通り騒がしい。
ネオン。
人波。
音。
だが、
もう違って見えた。
「……なあ」
エリシアは、
ぽつりと言う。
「この街は……
異世界より、
物語が多いな」
男は、
少し驚き――
そして、頷いた。
「ええ。
たぶん、そうです」
戦わなくても。
殺さなくても。
救えなくても。
語ることで、
残すことで、
誰かを立ち上がらせる。
そんな物語が、
この街には溢れている。
エリシア・グランフェルトは、
夜空を見上げた。
剣のない表現が、
これほど強いとは――
まだ、知らなかった。
そして彼女は、
確信し始めていた。
この街での旅は、
「迷い」ではなく、
選択の連続なのだと。
剣を抜かずに、
心を動かすための。




