剣聖令嬢、走り出す
「三日後なんて待てるか! 気が変わった、今すぐ連れて行く!」
傲慢な声と共に、応接室の扉が勢いよく開かれた。現れたハーベルナン伯爵は、庭で汗だくになっているカーシェとシエラを一瞥し、汚物を見るかのように鼻を鳴らす。
「おい、その薄汚いガキどもを連れて行くぞ! 空列車までの車を用意しろ!」
後ろに控えていた護衛の男たちが姉妹を取り囲む。
「な、なによ!?」
「きゃあぁぁ!?」
人攫いと大差ないほど強引に、大男たちは二人を無理矢理連れて行く。そして雇い主のだるま男はさも当然と言うかのように、孤児院の扉から出てきたゼスィアへ言い放つ。
「……ゼスィア院長、契約書は確かに受理した。これでこの娘たちは私のものだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の体はなまじ無意識に前へと飛び出していた。
「あの! 待ってくだs」
「とまれ、小娘」
私の叫びは、伯爵が連れている護衛たちの厚い胸板に遮られた。
「……っ、ちょっと!」
「やめるんだ、セレナ……」
背後からゼスィアの声が響く。
「ゼスィア様!?」
彼の手には、残酷なまでに鮮やかな朱印が押された書類が握られていた。
「そ、そんな……。伯爵閣下! その子たちに準備時間を……」
まだカーシェとシエラには己を守る術が何も身に着いていない。もしこのまま奴隷として虐げられれば、何の力もない彼女の未来は地獄そのものだ。
一端の剣士レベルとまでは言わない。せめて、剣術の基礎だけでも教えてあげたかった。
しかし、肥え太った男の言葉は残酷なまでに容赦がない。
「黙れ! 金は払った。平民が私に意見出来ると思うな! ……行くぞ!」
伯爵の合図で、屈強な護衛たちが姉妹の腕を強引に掴み上げる。
「おねえちゃん! いたいよぉ!」
「嫌だ、行きたくない! 離せ!」
泣き叫ぶ少女たちの声が、夕暮れの孤児院に虚しく響く。
少女たちが私に助けを求めて伸ばした手は、無慈悲に閉ざされた車の扉の向こうへと消えていった。魔動力機の音が遠ざかっていく。
私は、あまりの怒りと己の不甲斐なさに、痛いくらい拳を握りしめることしかできなかった。
「……ゼスィア様。どうして、あんな男に……」
理性では分かっている。彼が悪いわけではない事を。
孤児院の長として、育て親のいない子供たちの事を考えて、伯爵に託したということなど。
でも……。
(あの男にだけは、渡してほしくなかった!)
八つ当たりに等しいことは自覚していても、ゼスィアの顔を睨まずにはいられない。
だってカーシェとシエラは、あんなにも嫌がっていたのに……。これでは彼の言う、子供のための孤児院ではなくなってしまうではないか! 民を守るーーーそれが貴族の役目ではないのか。
彼は静かに契約書を見つめ、今まで聞いたこともないほど冷淡な声で呟く。
「……僕に力がなかったんだ。……ごめんね、セレナ。あの子たちが嫌がっていることは、分かっていたのに」
彼は、あの子たちがただの養子として扱われないことを、本能的に察しているようだった。
けれど、彼は知らない。あの男がやろうとしていることは、想像を絶するほど卑劣なこと―――『奴隷』として扱うつもりであるということを。
(……このままじゃ)
「それでいいのですか?」
「セレナ?」
「私は……、私は……納得できません」
「………………」
リサンドルティア公爵との契約? 剣聖の正体?
そんなものが、あの子たちの人生と天秤にかける理由になるはずがない。
「……ゼスィア様」
私は、彼の瞳を真っ直ぐに見つめて告げた。
「……しばらくの間、ここで待っていて頂けませんか?」
それは、令嬢としてのわがままではなく、一人の『剣士』としての決意だ。
バレるかもしれない。彼との関係が、終わってしまうかもしれない。
それでもーーー。
「私、行かなければならない所ができました」
私は彼を守るために強くなった。でも、本当の所は、何もできない無力な自分が許せなかったからなのだ。もし彼との結婚のために、罪の無い人々を傷つけるというのなら、私は結婚なんてしなくていい。
もちろんゼスィアのことがこの世で一番好きだと思っている。愛しているとすら思う。
だけど、『剣聖』となることを選んだ私の覚悟は、理不尽を前に指を咥えているだけの今の私を許しはしない。
「待っていて、くれますか?」
ゼスィアは一瞬、驚いたように目を見開く。
しかし、私の目をじっと見つめると、何かを読み取ったのだろう。彼はふっと悲しげに、それでいてどこか誇らしげな微笑みを浮かべた。
「……そうだね。君には、君にしかできないことがあるはずだ」
彼は私の肩にそっと手を置くと、力強く頷いた。
「行ってくるといい、セレナ。君がやりたいように、君の信じる正義を貫いておいで。……僕はここで、君の帰りを信じて待っているから」
「……はい!」
その言葉が、私の背中を強く押す。私は翻り、孤児院の門を飛び出した。
夕闇が迫る下町の路地。
私は走りながら、帽子の下で髪の毛をまとめていたかんざしを引き抜く。桃色の髪は風になびいて無秩序に翻り、周囲の気温がみるみる下がる。
(……絶対に、二人を傷つけさせたりしない!)
「『氷華の簪』、駆動……」
その瞬間、周りの世界が一変した。
髪に挿したかんざしの芯―――高純度の魔石が猛烈な蒼光を放ちながら、物理法則を無視した極低温の余波が、爆発的な速度で周囲へと侵食し、
―――キィィィィン!
大気が悲鳴を上げ、私の足元から石畳の隙間に溜まった泥水が瞬時に凍りつき、道端の街灯はパキパキと音を立てて霜に覆われていく。
全力疾走する私の背後では、追い越した景色が次々と白い結晶へと変わり、まるで銀世界の道が虚空から産み落とされる。
(熱を……感じろ!)
蒼白に輝く簪を通して、感覚が加速度的に研ぎ澄まされる。私を中心とした半径数十mは、全ての熱源を認識できる程に。
すると、『氷の眼』をもって数百m先に何人もの男たちに囲まれる、二人の少女の体温を感知した。その瞬間、その方向へと爆発的に速度を上げる。
吐息は白く凍るどころか吐き出した瞬間に氷の粒となって虚空に消え、激しく動いているはずの私の体は、この極限の冷気の中にあってなお、最適化された氷弾として飛翔する。
研ぎ澄まされた感覚は目標となる伯爵を逃がしはしない。『剣聖、絶対零度』の名にかけて奴らを見失うことなど在り得なかった。
「列車を使うのね……」
空列車の駅へと続く石畳の道を、風となって駆け抜ける。
その先に待ち受けるのは、『臨時便』と書かれた空列車。既に出発し始めている車両の中に伯爵の体温を感じ取り―――。
地を蹴って、空へと向かう列車へと飛び乗った。




